ピアノのレッスンが終わり、ミカミと日高さんの待つリビングへと移動すると、
ミカミはテーブルのまえの椅子に、日高さんは縫針先生の家で飼われている大きな黒い犬……『チャコ』のそばに座っていた。
そして部屋には日高さんのほかにもうひとり、少女が増えていた。
少女はチャコのそばにかがみこんで、チャコのからだをさすっている。
彼女は縫針先生の娘のかなでちゃんだった。
「あ、ママ! それに彩人おにいちゃんも、おつかれさまっ」
部屋に入ってきた僕たちに気がついたかなでちゃんは、にっこりと笑った。
かなでちゃんは頭の上に黒のリボンをしていて、赤いスカートをはいている。
その顔は縫針先生によく似ていて、縫針先生をそのまま小さくして、髪を伸ばしたかのようだった。
かなでちゃんはいきおいよく立ち上がると、縫針先生に体当たりするかのように抱きついた。
チャコは目を閉じたまま伏せていて、動こうとしない。
彼は老犬だった。足腰がだいぶ弱ってきていて、最近は立ち上がるのもやっとだ。
チャコのすぐそばには介護用の、大きなカートが置かれていた。
「チャコの具合は、どうですか?」
僕がたずねると、縫針先生が心配そうな顔で頬に手を当てた。
「昼間はまだ、こうしておとなしくしているからいいほうなのよ。でも、とにかく夜鳴きがひどくて。
しかたがないから、結子ちゃんのところで睡眠薬を処方してもらっているの」
「夜になると、犬も不安になったりするのだろうか」
おもむろに、ミカミが言った。
「もしもそうなら、人間とさほど変わりはないんだな」
しんみりとした言葉とは裏腹に、ミカミは茶請け用に出されたらしいビスケットをばりばりと食べている。
彼は甘いものが大好物なのだった。
ふと、部屋にかかった時計を見ると、時刻はすでに十八時を過ぎていた。
「もうこんな時間か。かなでちゃん、今日はずいぶん帰りがおそかったんだね」
僕が言うと、かなでちゃんは縫針先生に抱きついたまま、言った。
「うん! かなでね、学校が終わったあとは、図書館でお勉強してるの!」
「最近はかなでの学校終わりまで、仕事が間に合わないことが多くて……」
縫針先生はかなでちゃんの頭をやさしくなでると、笑った。
「でも、かなではおりこうさんだから、助かっちゃうわ」
するとかなでちゃんは縫針先生の顔を見上げた。
「ママは、おりこうさんにしているかなでのこと、好き?」
「もちろん!」
縫針先生にぎゅう、抱きしめられて、かなでちゃんはえへへ、とうれしそうに笑ったのだった。