封太は顔の角度を動かさないまま、低い声で言った。
「──彼が『ナツ』だ」
その瞬間、一水が立ちあがろうとするのを、封太がなんとか止めた。
「朝陽さんの安全が確保できるまで堪えてくれ。龍臣さんにはもうメッセージを送った」
一方柴木は、店員になにか言おうとして、やめた。
いたるに気づかないふりをして逃げるにはもう遅いと悟ったのだろう。
いつもはスーツやワイシャツを着ている柴木だったが、今日はラフな格好をしている。
あの格好だと童顔なのも相まって、朝陽と並んでも少し年の離れた兄妹程度にしか見えなかったかもしれないな、といたるは思った。
柴木はいたるの席までやってくると、苦笑しながら向かい側の椅子を引いた。
「驚いた。きみがフータ?」
ギギ、と椅子の脚が床を擦る音。
柴木がそのまま椅子に腰をかけたのを見て、いたるは膝の上でこぶしをぎゅっ、と握る。
「先生が……『ナツ』だったんですね」
「ああ。ちょっとおふざけがすぎたな。でも、そうか、きみだったとは……」
それから柴木は、テーブルの端に立てかけてあったメニューをいたるの前に置いた。
「とりあえず、なにか頼むといい。奢るよ」
「えっと、でも……」
「喫茶店に入ってなにも頼まないわけにもいかないだろう」
封太たちからの指示はない。
いたるは戸惑いながらもオレンジジュースを注文し、柴木はコーヒーを注文した。
「それにしても、いたるくんは受験生だというのに、あんなに遅い時間までゲームをしているとは」
「す、すみません……」
「冗談だよ。息抜きも必要だからね」
そこへ店員が飲み物を運んできた。
いたるの目の前にオレンジジュースが置かれ、
「はい、ストロー」
柴木が笑顔でストローを渡してくる。
「ありがとうございます……」
いたるは受け取りながらも、心臓は破裂しそうだった。
──睡眠薬を盛られるかもしれないから、犯人が現れたあとは絶対に飲食してはならない。
封太とはそう約束をした。
しかし、いままで柴木の動きを注意深く観察していたが、飲み物に何かを入れたような動きはなかった。
柴木は微笑んだまま、しかしどこか威圧感が潜んでいるような声でゆっくりと、言った。
「飲まないの?」
そのとき、封太のスマートフォンに通知が届いた。
封太が小さい声で一水に声をかける。
「無事、保護」
「了解。イクマさん、あとはお願いします」
一水は今度こそ立ち上がるとつかつかと歩いて行って、いたるの席の前に立った。
通路側に立たれて、柴木は咄嗟に動けない。
なにごとかと驚いて一水を見上げる柴木に、一水はとびきりの笑顔を見せた。
「柴木桂吾さん。あんた、運がいいですよ。しばらくの間は警察に守ってもらえるんですからね」