いたるの迷い(e)


「プリモの楽譜は見つかったんですか?」
「んーん。学校を卒業しちゃうとねえ〜。他のピアニストと出会う機会もあんまりなくなっちゃうし。
……とにかく、僕がピアノを始めたきっかけはその楽譜で、気がついたらそのままピアノに携わる職業に就いてた、って感じだよ。
僕がいたるくんくらいの年齢のときはなーんにも考えてなかったし、ピアノもずっと下手だった。
だからいたるくんも、もっと気楽に構えていいと思うよ。これが最後の選択ってわけじゃないし」

そして見晴は口に茶菓子を放り込んでから、しみじみと言った。

「そんなに悩んじゃうってことは、いたるくんにとって、それだけピアノが大きな存在なんだねぇ」

いたるは意表をつかれて、はっと見晴を見た。
見晴は笑顔のまま、頬杖をついていたるを見ている。

自分が中途半端な気持ちでいることは、覚悟が足りないせいなのだと思っていた。
でも言われてみればたしかに、そういうことなのか。

いたるは温くなった紅茶に口をつけた。
美味しい。わずかにフルーツの香りがする。

いたるはほっと息を吐くと、笑った。

「見晴先生、ありがとうございます。ピアノとの向き合いかたが少しわかった気がします」
「それはなにより。えらいからお菓子をもう1個おまけしちゃおう」

見晴はいたるの小皿に茶菓子を追加して、それから小声で言った。

「……えらいついでに、いたるくんにちょっと聞きたいことがあるんだけれど」
「なんですか?」

見晴は内緒話をするみたいに、口元に手をやりながら言った。

「うちの生徒に朝陽(あさひ)ちゃんっているじゃない、香月(かげつ)朝陽」

いたるは話の行き先がわからず、小首を傾げる。

「ぼくと同じ小学6年生の女の子ですよね。……発表会で見かけるくらいですけれど」

いたるは朝陽の姿を思い浮かべる。

朝陽は髪の短い、ごく普通の女の子だったはずだ。
ただ、発表会では彼女の関係者らしき観客が、ふつうの家族よりも明らかに多かったのが印象に残っている。
親戚が多いのか、はたまた家族の会社の関係者なのかわからないが、スーツを着た大人の男が多いので、いつも目立っていた。

見晴が「そう、その子」といたるを指差した。

「彼女と連絡をとったりしてる?」
「いいえ。朝陽さんとは学校も違うので……」
「だよねぇ……」

先ほどまでのいたると代わって、今度は見晴が顔を曇らせた。
眉根を寄せて、どこか不安があるような難しい顔をしているので、いたるはおずおずと尋ねた。

「えっと……彼女になにか?」

見晴は腕組みをしながらうーん、と言った。

「……ここだけの話にしてほしいんだけれど。彼女、実はいま、行方不明なんだ」