玄関から入ってすぐ、左手にはピアノ部屋、右手にはダイニングキッチン。
ほかの部屋の間取りがどうなっているかはわからないが、このふたつの部屋には仕切りがないし、扉もない。
ピアノの横にある大きな本棚には楽譜がびっしりと並んでいる。
それぞれ整頓はされているものの、物の多さがもともと広くない部屋をさらに狭く感じさせていた。
見晴は戸棚のカップを選びながら、振り返った。
「いたるくん、紅茶は飲める? それともジュースがいいかな?」
「紅茶、飲めます」
「じゃあ紅茶にしよう」
見晴は鼻歌を歌いながら茶葉をポットに入れている。
なにかをしながら鼻歌を歌うのは、見晴のくせだった。
いま歌っているのは、グリーンスリーブス。
イングランドの民謡で、作者不詳の曲だ。
「座って座って」
「失礼します」
いたるがダイニングのテーブルのまえに座ると、横から見晴が淹れたての紅茶と、茶菓子を乗せた小皿を置いた。
「それで、なにか悩みごとでもあるの?」
「えっ」
向かいの席に座った見晴が突然そう言ったので、いたるは目を丸くした。
「どうしてですか?」
「顔にそう書いてある」
見晴はいたずらっぽく、自分の頬を人差し指でつついた。
「いつもよりも元気がないように見えるかな。なんでも言っていいよ、言いたくなければ言わなくてもいいけれど」
いたるはしばらく揺れる紅茶の表面を見つめていたが、顔をあげた。
「見晴先生は、どうしてピアノの先生になったんですか?」
「えー?」
見晴は椅子の背もたれに寄りかかると、何かを思い出すかのように天井に目をやった。
「うーん。僕はもともと、バイオリンを習っていたんだよね」
いたるの知らない話だった。
となりのピアノ部屋に小学生くらいの頃の見晴の写真が飾ってあるが、その写真の中でも見晴はすでにピアノを弾いている。
「僕が小学2年生のときだった。ホテルのロビーで、高校生くらいの男の子がピアノを弾いていてね。
それがあまりにもうまいからいたく感動しちゃって。すぐに声をかけて質問攻めしたんだ。
そしたら、その人は笑って言った。『きみのように、音楽を好きになることも才能だね』、って」
見晴は懐かしそうに目を細めた。
「口ぶりからして、もしかしてピアノがあまり好きではないのかな、とそのとき感じたな。
そういう人がいるんだって、驚きもした。僕は音楽を聴くのも、演奏するのも大好きだったからさ。……その人は僕に、手書きの楽譜を渡してきた。それは連弾用の楽譜で、セコンドのパートしかなかった」
セコンドとは、低音部を弾く人のことだ。
つまり、見晴が渡されたのはおもに伴奏を担当するパートの楽譜ということになる。
「その人自身、楽譜はある人から譲り受けたもので、そのときからすでにセコンドのパート譜だけだったらしい。
プリモのパート譜はほかのだれかが持っているって聞いたけれど、そのだれかを探すつもりは自分はないから、代わりにきみが持っていて、って」
奇妙な話だった。
どういう経緯でその人はその楽譜を譲り受けることになったのか。
そしてなぜ、ひとつの曲の楽譜が離れ離れになっているのか。
考え込むいたるを見て、見晴はくすくすと笑った。
「そんなことがあったらさ、わくわくしちゃうじゃない。まずはそのセコンドのパートを弾いてみたくて、ピアノを始めた。
弾けるようになったら、今度はプリモのパート譜を探し出したくなった。ほんとうはどんなハーモニーになるのか知りたくなったんだ。そうこうしているうちに、いつの間にかこうなっちゃった、ってわけ」