いたるの迷い(c)


6月に入ったばかりだが、小学校の校舎の外は蒸し暑かった。
今年は特に暑い夏になるという。

いたるがバスに乗ると、すでに冷房が入っているのか、ひんやりと心地がよかった。

いたるが降りる停留所は「やなぎ団地入り口」。
目的の停留所でバスを降り、しばらく歩くと、大きく古い公団住宅が見えてくる。
いたるが通っているピアノ教室は、この公団住宅の中にあった。

というのも、いたるが通っているピアノ教室は個人運営で、教室兼、ピアノの先生の自宅となっているのだった。

公団住宅にはエントランスはなく、エレベーターもない。
いたるはそのまま階段をのぼると、2階の部屋の扉の前に立った。

チャイムを押す前に、そっ、と耳を澄ませる。

いまの時間は、ナツがレッスン中のはずだ。しかしピアノの音は聞こえない。
ただ、今日に限らず、ピアノの音が外に漏れ聞こえてきたことはない。
なんでも、部屋の壁面ごとに遮音設計を施しているという。

(レッスン時間にはまだ早いけれど、中で待たせてもらおう)

いたるは身だしなみを整えて、チャイムを押した。
するとほどなくして、男が出てきた。

「いたるくん、ちょうどよかった! どうぞあがって」

ピアノの先生……〆野見晴(しめの・みはる)は満面の笑みでいたるを迎えた。
見晴は20代の、まだ大学生と言っても通用しそうな見た目の優男だった。

「ナツくんが今日、お休みでさ。時間を繰り上げてレッスンできるよ」
「えっ……」

いたるは、真夏に頼まれていた教科書のことが頭をよぎった。
しかし、休みなものはしょうがない。明日学校で渡せばいいか。

いたるは玄関で脱いだ靴を丁寧に揃えてから、言った。

「ナツくん、風邪ですか?」
「そうみたい。学校からもちょっと早く帰ったんだって。あ、時間もあるし、レッスン前にお茶をしようよ!」

見晴は玄関の扉を閉めると、いたるの返事を待たずにキッチンへと行ってしまった。