短い呼び出し音のあと、緋色はすぐに電話に出た。
『……もしもし?』
「僕だ。遅くなってごめん。……いま、ひとりになった」
『ねえ、あおちゃん』
緋色はどこか焦った声で、言った。
『いますぐ私のところに来て』
「え? それはいいけれど、どちらにしてもみずきがもどってきてから……」
『だめ!』
緋色がわずかに声を荒げた。
『絶対にだめ。村崎みずきからいますぐ離れて! お願い』
「じゃあ、彼女ひとりをここに置いていけっていうのか?」
僕には緋色の言っていることが理解できなかった。
「どういうことか説明してもらわないと、納得できない」
緋色はしばらくのあいだ黙っていたが、やがてちいさな声で言った。
『説明するには時間が足りないの。あおちゃん、なにも聞かずに探偵事務所にひとりで来て。約束だよ』
「ちょっと待っ……」
通話はそこで、またしても一方的に切られてしまった。
……意味がわからない。
あの日……といってもこちらの世界では『昨日』、だれもいない池袋で、鍵のかかっていた事務所を思い出す。
……あのときも、すでに緋色は事務所の中にいたのだろうか。
……それなら、どうして応えてくれなかった?
僕はみずきのベッドに腰をかけた。
僕のベッドとは違い、ふかふかで弾力があった。
思わずそのベッドに身を投げ出して、大の字になる。
わずかにみずきのにおいが残っている。甘くて、心地いいにおいだ。
しばらくベッドに横になってうつらうつらしていると、
部屋の扉がぎい、と開く音がしたので、僕はあわてて上半身を起こした。
「お待たせしました、蒼太さん」
「あ、うん、おかえ……」
なにげなくみずきに視線を向け、思わず僕は咳き込んだ。
みずきはバスタオルを一枚巻いただけの姿だった。
まだ濡れている髪に、シャワーの熱のせいか、少し赤みを帯びたほお。
たぶん、僕はぽかんと口を開けていたことだろう。
とっさにつばを飲み込み、ゆっくりと落ち着いて、慎重にたずねる。
「……ど、どうしたんだ?」
「蒼太さん」
みずきがこちらへ歩いてくる。
そしてベッドの上に腰かけたままだった僕のとなりに、すっと腰を下ろした。
「私、この世界で蒼太さんに会えて、ほんとうによかったと思っています」
彼女は熱のこもった口調でそう言った。
「私ひとりでは、きっと耐えられませんでした……」
とてもではないが、僕はみずきの顔を直視できなかった。
みずきは続けた。
「あなたのことが好きです、蒼太さん」
胸の奥が、ざわざわした。
彼女はぎゅっと、太ももの上で、拳を握りしめている。
はじめて僕たちが出会ったときと同じように、その手は震えていた。
「うそでいいんです。いまだけのうそでいいから……私のことが好きだ、……って、言ってくださいませんか」
バスタオルを隔てて、となり合わせの彼女の体温が伝わってくる。
いつものみずきとは違う、
洗い立ての、かすかなシャンプーのにおい。
僕は彼女のその細い肩をこわごわと抱いた。
触れた彼女の肌は、まだしっとりと濡れていた。
僕はもう片方の手で、彼女の頭を僕の体へと引き寄せた。
もう無理だ。どうにでもなれ。
僕は、彼女の耳元でささやいた。
「好きだよ、みずき」
僕なんて死んでしまえ、と思った。
思いながら僕は、
彼女の顔を僕に向けさせ、彼女の唇を奪った。