首なし幽霊(b)


案内されたチカコの家は、いかにも上流階級といった風の大きな屋敷だった。
てっきり夫とふたり暮らしかと思ったが、屋敷には使用人のすがたも何人か見受けられた。

「三嶽先生、こちらです」

三嶽が通されたのは、一階の、仄暗い灯に照らされた部屋だった。
部屋の広さはそこそこある。小さなピアノサロンとしてもじゅうぶんに機能しそうな広さだ。
部屋の一角には大きな本棚があり、本棚の手前にそのピアノは置かれていた。

「ちなみに、いまは幽霊は?」
「……見えません」

三嶽は、まずはピアノの周囲をぐるりと観察した。
年代物のようだが、手入れが行き届いている。……もしかすると、譲り受けたときに一度メンテナンスを受けているのかもしれない。

続いて鍵盤のふたを開けてみて、鍵盤がすこし黄ばんでいることに気がついた。

「……これって……」

三嶽が指で白鍵をなぞってみると、表面がざらついている。
チカコが言った。

「ねえ、三嶽先生、普通のピアノとはなにかがちがいますよね?」
「ああ、これは……、白鍵部分に、本物の象牙が使われているんですよ。最近は、人工象牙が主流ですから」
「え? 本物の象牙……」
「おそらく、夫人の違和感はそこでしょう。ただ、それと首なし幽霊との関連性はまだ、わからないな」

藤丸が、黒い鞄をくわえて、トコトコと三嶽のそばにやってきた。

「ありがとう、藤丸。……わからないことは、直接聞いてみよう」

三嶽は黒い鞄のなかから、模様が描かれている長方形の紙の札(ふだ)を一枚取り出した。

「この札の符呪で、その首なし幽霊とやらをあぶり出してみます」

チカコはびくりと身体をふるわせて、恐る恐るたずねた。

「わ、私は部屋の外に出ていてもいいですか?」
「構いませんよ。……藤丸をおともさせましょうか?」
「あ、は、はい、お願いします」

チカコは藤丸を抱きかかえると、部屋の外へとあわてて出て行った。
とびらが閉まったことを確認すると、三嶽はその札をピアノにあてがった。

『幽冥の符呪、──”発現”』

呼びかけとともに三嶽の髪が逆立ち、片目が赤く光ったかと思うと、生ぬるく黒い風が部屋のなかに渦巻いた。


黒い風とともに現れたのは、スーツを着た、おそらく男性だ。
……首からうえが『ない』せいで、人相や具体的な年齢がわからない。ただ、体格からしても成人男性で間違いはないだろう。

三嶽が研究している『怪異』には、さまざまな種類がある。
呪いだったり、未知の生物だったり、怪奇的な現象だったり。

今回のような人間のすがたに近い、いわゆる『幽霊』は、そのほとんどがもとは人間だ。
人間のすがたを保っているあいだは、生前とさして人格は変わらない。しかし時間が経つにつれ、そのすがたは曖昧になっていき、やがてタチのわるい怪異に変質していく。

つまり人型に限りなく近いこの目のまえのスーツの男は、死んでからそれほど年月が経っていない、ということになる。

三嶽は、男に話しかけた。

「……あなたはなぜ、そのピアノに憑いているんだ?」

スーツの男は、肩をすくめてみせた。わからない、というジェスチャーだ。

「それでは、あなた自身が死んだ理由も覚えていない?」

胴体がわずかに前に傾く。これはイエスという意味だろう。

「ピアノから、遠く離れることはできるのか?」

これにはノー。
そのあとも身振り手振りを交えた受け答えから、いくつかのことが判明した。

このピアノは、もともとはこの男の持ちものだったということ。
男が死んだ原因はわからないが、男が幽霊となって気がついたときにはすでに、ピアノはこの屋敷に住む伏見家当主の手に渡っていたこと。
男と伏見は知り合いではないが、伏見はどうやら、いわくつきだと知っていて譲り受けたらしいということ……。

「……きゃっ!」

短い悲鳴に三嶽がふり返ると、そこには藤丸を抱いたまま顔をのぞかせたチカコのすがたがあった。
幽霊は、そんなチカコに向かって、陽気に手を振った。

三嶽は頬をかいた。

「……どうやらいまのところ、彼はそこまでわるい幽霊ではないようです。伏見夫人、このピアノをだれから譲り受けたか、ご主人から聞いていますか?」
「ええと、たしかピアノ工房の人から、と言っていました」

チカコは眉根を寄せて、考えた。

「……名前はなんていったかしら……、……そう、たしか調律師の雀零崇(すずめ・ぜろたか)さんだわ」