推移(b)


「朝本編集長! 電話が鳴り止みません!」

玲花の仕事先の出版社のオフィスには、問い合わせの電話がひっきりなしにかかってきていた。
原因は、もちろん月見坂学園立てこもり事件の犯人、『鷲村澄人』だった。

玲花が以前、彼の記事を書いていたことで、この出版社が一躍注目のまととなってしまったのだった。

朝本は、部下にどなった。

「担当者不在で通せ!」
「そうは言いますけれど……! はっきり言って、ここで足ぶみしているのは、最悪の策っすよ!  週刊誌の売り上げを爆発的にのばせる、絶好のチャンスなのに!」
「……わかっている! でも、まだだめだ! ……もういい、受話器をあげておけ!」

あわただしいオフィスのなかで、朝本はずっと、どこかに電話をかけ続けていた。

「くそっ……六路木君は、なにをしているんだ!?」

事件が発覚してからというもの、朝本はずっと玲花に電話をかけ続けていた。
しかし、玲花の携帯電話の電源は、ずっと切られたままだった。

オフィスに置かれたテレビには、いまも立てこもり事件の生中継映像が映っている。
あの妙なところで勘のするどい玲花が、この事件に気がつかないはずがない。

朝本は、いやな予感がしていた。

机の上には、何度読み直したかわからない、玲花の書いた『鷲村澄人』の記事が置いてある。
朝本はもう一度、その記事に目を走らせた。その記事には、だいたい次のようなことが書かれていた。


……鷲村澄人は、自分の父親に熱湯をかけ、大やけどを負わせたことで逮捕された。 しかしもともとは、鷲村の家からは毎日のように両親のどなり声が聞こえていて、鷲村の幼少期には虐待が疑われていたらしい。 また、鷲村の両親は『当たり屋』のような人種で、すこし目が合っただけでも難癖をつけてきては、 金品を要求してくるような悪質な人間だった、と周辺住民の取材からわかっている。

一方、鷲村本人は、どんなに生傷が増えても、けっして人に助けを求めることがなかったという。 そして、今回の父親に大やけどを負わせたことに対しても、完全な黙秘を続けている。 事件の証言は鷲村の両親だけで、それも不審な点がいくつかあるところから、 両親がうその証言をして、鷲村を加害者に仕立て上げた可能性もあると考えられる。

つまり、父親は自分の過失でやけどを負ったのを、わざと鷲村のせいにした。
そして自分が被害者になることで、注目を引こうとしたのではないだろうか……?


……もちろん、実際の記事には鷲村澄人の本名は出てこない。代わりに『S』と表記されているだけである。
しかしそんなものは、調べてみればすぐにわかることだ。

玲花は、正義感がきわめて強い。
真実を見極めるためには、必ず自分の目を使わないと気がすまないタイプだ。

そして今回の立てこもり事件では、すでに鷲村の名前が公表されている。
この事件を、あの彼女がほうっておくはずがない。

朝本は頭をかかえた。

「……六路木君、無茶だけはやめてくれよ……」



月見坂学園のB棟側にある屋外プールの一角は、おいしげる木々のかげになっている。
玲花はそこから月見坂学園に忍びこむために、警官たちのすきを見はからっていた。

上空には、警察のものと思われるヘリコプターが飛んでいる。
忍びこんだあとには、きっとあのヘリコプターに見つかってしまうだろう。

しかし敷地のなかに入ってしまえば最後、事件が終わるまでは警察もマスメディアもさわげない。

(……鷲村澄人と、直接話がしたい)

玲花が鷲村の事件を追っていたとき、鷲村から感じたのは『あきらめ』だった。
無抵抗で、自分を守ることもしない。声をあげずに、じっとたえる……それが鷲村澄人という人間だったはずだ。

それなのに、今回の事件はというと、あからさまに過激で、攻撃的だ。

なにが彼を、そうさせたのか。
今度こそは、自分の目と耳でたしかめなければ。

玲花はようやく警官たちのすきを見つけると、いそいで石の塀をよじ登った。
さいわい、だれにも見つかることなく、玲花はプールサイドへと侵入することに成功した。

それからは早足で、しかし慎重に、校内を移動する。
……物音は、まったくしない。鷲村と人質たちは、どこにいるんだろう?