夜と自転車(b)


翠の身体は、軽かった。
自転車のペダルを漕ぐのに必要なちからは、僕がひとりで乗っているときと、さほど変わらない。

外は、まっ暗だった。星は出ているけれど、なんの役にも立っていない。
道沿いに点々と続く街灯のしたを、僕たちは駆け抜けていく。

背中には、翠の体温を感じる。翠は僕の腰に、両手でしがみついていた。

「翠、どこまで探した?」
「心当たりのあるところは、すべて。可能性が高いところから順に探して、一番可能性が低いと思ったのが、和也の家だった」
「警察には?」
「……まだ、届けていないの。もしも紺が誘拐されたなら、犯人がどういうタイプの人間なのか、知ってからのほうがいいと思ったから。 ……でも、身代金のような要求もないし、今夜中に見つからないなら、明日の朝には捜索届けを出すつもりよ」

身代金目的ではない誘拐だったとしたら、と考えると、ぞっとする。
そのほうがはるかに怖い。すでに手遅れ、という可能性だってある。

「ほんとうに、手がかりはないのか? まったく?」
「……ひとつだけ、気になっていることはある。他人の顔を判別できない紺が誘拐されたのは、ただの偶然なのか、……ということが」
「目撃証言は?」
「だれも見ていなかったみたい。でも、最後に紺が目撃されたのは、児童館だった。 もしも児童館からさらわれたのなら、相手は紺の名前を知っていた可能性が高い。そうなると、最初から紺が狙いだった、ということになる」

車が一台、すれ違う。
エンジン音が遠のくまで、僕たちは会話を中断した。

「……『私たちの家族になにかあった』、……とでも言われたら、紺はついて行ってしまうと思うわ」

紺は純粋な子だ。
まるで疑うということを知らない。
意図的に騙されたら、きっとその言葉を信じてしまうだろう。

街路樹の影が、まるで僕たちを捕らえようとしているかのように、路の上に落ちている。
僕はその影を地面に縫いつけながら、自転車を滑らせる。

「……それにしても、寒いわ」
「そりゃあ、そうだよ。制服の上になにも着てこないなんて」
「それは、和也も同じでしょう。……マフラーは、どうしたの」
「ああ、あれは今日、学校でなくしてしまったんだ。朝には確かに、巻いていったはずなんだけれど」

それを聞いた翠は、何かを考えるように押し黙った。
沈黙が続くと、翠がほんとうに後ろに乗っているのか不安になる。

僕はおそるおそる、翠に声をかけた。

「……翠?」
「路線バスの停留所をひとつずつ、見ていきましょう」

あまりにも、唐突な案だった。
翠がこんな言動をする時の理由は、決まっている。

「なにかわかったんだね?」

翠はいつもそうするように、なにも答えなかった。