翌年の2月。
いたるとナツは、志望していた中学校に晴れて合格した。
合格発表があった、その週のピアノのレッスンの日。
先にレッスンを終えたナツはすでに帰り、ピアノの部屋にはいたると見晴のふたりきりになった。
「よくがんばったね、いたるくん。ピアノもそうだけれど、いろんなことがあって、乗り越えた」
見晴はそう言って、いたるの頭をワシャワシャと撫でた。
──いろんなことというのは、半年前に朝陽が誘拐され、いたるのクラスの担任が犯人だった事件のことを言っているのだろう。
まさかその犯人を誘き寄せるおとり役として、いたるが協力していたとまでは見晴も思ってはいないだろうけれど。
「いたるくんに、渡したいものがあるんだ」
見晴はそう言って、ピアノの譜面台に無造作に置かれていた数枚の楽譜をいたるに手渡した。
いたるはなんだろう、と思いながらもその譜面に目を通してみる。
楽譜はタイトルがなく、署名もない、手書きのものだった。
そのスタイルに、いたるはなんとなく、世間で有名な画家「サバト」を思い浮かべた。
「サバト」というのは長年人気が衰えない覆面画家だ。
彼、あるいは彼女の絵画には署名もなく、ほぼすべての作品にタイトルもない。
「サバト」という愛称ですら世間が勝手につけた名前だという。
この楽譜もサバトの絵と同じように、作曲者による作品への執着が感じられない。
2段組の5線譜の始まりに「Secondo(セコンド)」と書いてあるので、それが連弾用の楽譜だということだけが、かろうじてわかる。
そこで、いたるはぴんときた。
「この楽譜って……!」
いたるが声をあげ、見晴が笑顔で頷いた。
「そう。去年言っていた、僕が譲り受けた楽譜だよ。この楽譜を、いたるくんにあげる」
いたるが驚いて見晴の顔を見た。
「そんな! この楽譜は見晴先生の大切な楽譜なんじゃ……」
「大切だからこそ、だよ。僕はもうその楽譜は暗譜しているしね。僕にはできなかったけれど、いたるくんならこの楽譜の片割れを見つけられるかも」
いたるは顔が火照るのを感じた。
嬉しい。
なんなら、中学校に合格したことよりも、ずっと。
見晴は懐かしそうに、目を細めて言った。
「作曲者は、あえてこの曲をふたつに分けたんだと思う。それがどういう意図だったのかはわからないけれど。……でも、そんな曲がまたひとつになることがあるなら、」
もう一度出会うことがあるならば。
「──それは、きっと運命なんじゃないかな」
いたるはもう一度、楽譜に視線を落とす。
そこにはひとつひとつ丁寧に書かれた、几帳面そうな音符が並んでいる。
過去から未来へ、想いを繋ぐ特別な楽譜。
──この楽譜と共に歩んでいく道は、どんなに頼もしいものだろう。
バラバラだったものがひとつに重なり合って、思いがけない新しい和声を奏で始める。
たとえば友だちや、みんなが。
……親友の白河ナツが、自分と共に歩んでいくように。
おわり
2024/09/26 擱筆、公開