カッターナイフ(b)


すでに日が落ちかかっているうえ、路地裏となるとかなり薄暗かった。
とおくで、豆腐屋の笛の音が聞こえる。

そして俺の目のまえには、包丁を持った男。
まちがいない。……こいつが例の、通り魔殺人事件の犯人だ!

男はふるえる俺に顔を近づけ、瞳をのぞきこんできた。

「きみ、あの人のことが好きなんだよね。好きってどんな感じ? おなかが空いたときに目のまえに出される、ドーナツみたいな感じかな」

それから、「あ!」と男は声をあげた。

「じゃあさ、俺があの人を殺したとしたら、どんな気持ちになる? 悲しい? それとも怒るの?」

俺は、さっと青ざめた。

……じょうだんじゃない。
マツリさんがこいつに殺される? それも、俺のせいで!

俺はあわてて言った。

「あ、あのっ、マツリさんは、あ、……彼女のことはどうか、どうか助けてください。俺のできることなら、なんでもしますから……!」
「……まあ、ありがちなセリフだよね。それじゃあ俺も、ありがちに選ばせてあげる」

男は俺の前髪をつかんだまま、さらに顔を近づける。
おでこが触れ合うところまできて、彼は笑って言った。

「きみがここで俺に殺されるなら、彼女のことを見逃す。彼女を殺してもいいなら、きみを見逃す。……きみはどちらを選ぶ?」

俺は吐きそうだった。
殺される。たぶん男の手にしている包丁で、刺されたりきられたりする。

ピアスの穴どころのさわぎじゃあない。
死ぬまで、きっと、すごく痛い。

でも。

ぱっと、マツリさんのほほえみが脳裏をよぎった。

……俺はマツリさんが好きなのだ。
マツリさんの歩くすがたが、ほほえむすがたが、そしてマツリさんのいる世界が好きなのだ。

俺はふるえながら、泣きじゃくりながら、それでも手をはなさない男に向かって、声をふりしぼって言った。

「……彼女を……だずっ……、たすげて……ください……」

俺の前髪をつかんでいた手のちからが、ゆるんだ。
それで一瞬、許されたのかと思ったが、ちがった。

彼は、俺が首からさげていたペンダントをはずすと、それを自分の首にさげた。

「な、な……」
「きみ、名前は?」
「……リイチ……」
「リイチくんの遺品、もらっとくね」

それから目にも止まらないはやさで、あっという間に口をダクトテープでふさがれた。

声が出ない。
その意味するところを知って、あわててテープをはがそうと手をあげたところで、男が言った。

「それじゃあまずは小指から、いってみようか」



辺りはすっかり、暗くなっていた。
リイチだったかたまりは、血だまりのなか、動かなくなっていた。

「あー……ここまでするつもりはなかったのに。人に見つからなくてよかったぁ」

血まみれの包丁を持った男……シンドウは、口もとについた血をぺろりなめた。

「服にもついちゃったか。……まあ、もう暗いし、裏道を行けばいっか」

そのとき、背後でじゃり、と地面のこすれる音がした。

シンドウがふりかえると、女が口をおさえて立っていた。
見覚えのあるそのすがたに、シンドウはすぐに思い出した。

(この女は……、マツリって言ったっけ)

殺さないと約束をした標的本人に、早々に犯行現場を見られてしまうとはついていない。
さてどうしたものかとシンドウが考えていると、マツリの目は次第に輝いていった。

「あなたが殺してくださったんですね……!」

マツリは頬を紅潮させ、興奮したようすでシンドウに近づくと、血がつくことも気にせず、その手をにぎった。

「あなたは私の命の恩人です! ほんとうにありがとうございます……!」

シンドウは、なんとなく自分の目線を夜空に逃した。

この人、ちょっとヤバイ人だ。
それに……

「命の恩人は、俺じゃないと思うんだけれどなー……」

シンドウは、首もとのペンダントに触れながら、なんかかわいそうなことをしたな、とはじめて思ったのだった。

おわり
2020/05/24 擱筆