牛刀(b)


あくる日、僕は何本かの包丁を仕事用の鞄に入れ、クゼさんからもらったメモに書かれた住所まで足を運んだ。

そこにあったのは、ごくふつうの日本民家だった。
平屋(ひらや)建ての一軒家。年数もそこそこ経っていそうだ。

もちろん、この場所に日本家屋が建っていること自体は、なんのふしぎもない。
ただ、燕尾服を着たクゼさんとは、あまりにも不釣り合いな気もした。

首をかしげながらも呼び鈴を鳴らすと、クゼさんはすぐに玄関の扉を開けて出てきた。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞお上がりください」
「はい、失礼します……」

クゼさんは、今日も燕尾服を着ていた。
さすがにもうおどろきはしないけれど、まさかこの服が彼の普段着なのだろうか。

クゼさんは僕を居間に通すと、畳のうえの座布団に座らせた。

「さあ、お座りください。……早速ですが、例のものを見せていただけますか?」
「ええ、もちろんです。……どれも値は張りますが、そのぶん、切れ味は保証します」

僕は目のまえの黒檀(こくたん)の机のうえに、三本の包丁を並べた。

「ほう……、なるほどね」

クゼさんは興味深そうに包丁を眺めていたけれど、直接手で触れようとはしない。
しばらくはそうやって、しげしげと包丁を吟味(ぎんみ)してから、やがてクゼさんは、すく、と立ち上がった。

「すこし考えたいので、ここでお待ちいただけますか」
「あ、はい」

クゼさんはにっこりとほほ笑むと、となりの部屋へとすがたを消した。

刃物屋では、ぼんやりとお客を待っている時間が大部分を占めている。
だから、待つのは得意なほうだ……、と思っていたんだけれど。

二時間後。
……クゼさんは、まだもどってこなかった。

さすがにそとも薄暗くなってきたし、なにより暖房器具もないこの部屋は、とても寒かった。
吐く息が白い。これではまるで、屋外にいるのと同じだ。

なにかがおかしい、……と、僕はここにきて、ようやく気づき始めた。
僕は立ち上がると、クゼさんの消えていった部屋のまえに立った。

「あの、クゼさん……?」

おそるおそる、襖(ふすま)越しに声をかけてみたけれど、返事はない。
……まさか向こうがわで死んでいる、なんてことはないだろうけれど。

「クゼさん? ……入りますよ?」

僕はそのまま、一気に襖を開けた。

「……え」

そして僕は、その光景を見て固まってしまった。

襖の向こう。
部屋のなかには、……なんとだれもいなかったのだ。

部屋の窓は固く閉じられている。鍵も内がわからかけてあった。
そしてこの部屋に通じているのは、たったいま、僕が通ってきた襖で仕切られた居間だけ。
つまり、……ここは密室なのに、クゼさんだけが煙のように消えてしまったのだ。

部屋のなかに、ものは少ない。
ちいさな机に、本棚。そして机のしたには、紙袋が無造作に置いてあった。

僕はなんとなく、その紙袋が気になった。
そっと近づいて紙袋の中身をのぞき見た僕は、絶句した。

「……札束だ」

しかもその札束は、ざっと見ただけでも二十ほど……、ちょうど『二千万円』くらいの量に見えた。
僕はすぐに、きのうラジオで聞いた銀行強盗のニュースのことを思い出した。

「……まさかこれが、銀行から盗まれた二千万? それじゃあ……」

そのとき僕は、紙袋の影に隠れていた、もうひとつの黒い鞄を見つけた。

僕は導かれるように、その黒い鞄を机のしたから引きずり出した。
鞄を開けてみると、そこには新聞紙に包まれたなにかが入っていた。

僕は新聞紙を剥(は)がすと、中身を確認してつぶやいた。

「……クゼさんの正体は、あなただったんですか。あなたが人間に化けて、このことを僕に知らせに来たんですね?」

……新聞紙に包まれていたのは、まだ血のついたままの『灰青色の』牛刀だった。