ツキモリ地区の上層階に、その小さな研究所はあった。
研究所とはいっても、白い壁に囲まれた実験室もなければ、白衣を着た研究員もいない。
ここ、『三嶽(三嶽)怪異研究所』では、所長の三嶽壱(三嶽・いち)が、ひっそりと怪異を研究する日々を送っているのだった。
研究所に、今日は警部の調月(つかつき)ウルがおとずれていた。
「三嶽くん、最近の『あの』うわさは知っているかい?」
ウルは、三嶽とはかつて同級生だった青年で、三嶽の数少ない友人のひとりだ。
いつも眠たげな目、ぼさぼさの髪の三嶽とはちがい、ウルはきれいに整えられた髪に、精悍な顔つきの好青年だった。
三嶽は相変わらず眠そうに、なんならあくびさえしながら答えた。
「ああ、新聞で読んだよ。……ここのところ、傷害事件が続いているそうだな」
三嶽は机のうえに置かれていた、今朝の新聞にもう一度目を落とした。
被害者は、昨日で六人目。いずれも夜道で背後から何者かに襲われている。そして気を失っているあいだに、首もとに小さな傷をつけられているらしい。
死者は出ていないが、犯人の目的がわからず、ツキモリ地区の人間を怖がらせているようだ。
ウルは、自分の首横をひとさし指でトントン、とつついた。
「被害者たちには、ここのところに噛みあとのような傷が残されているんだ」
それからウルは、すこしいたずらっぽく片眉をあげた。
「ここまで言ったら、俺がここにきた理由はわかるよね? ……ずばり、どう思う?」
夜の犯行と、首もとの噛みあと。
三嶽にも、ウルが言わんとしていることは察しがついた。
「……『吸血鬼(きゅうけつき)』、か。……しかし僕はあいにく、吸血鬼のくわしい生態は知らないんだ」
吸血鬼は、民話や伝説のなかに登場する存在だ。
人間の生き血をすすり、その血を吸われた者もまた吸血鬼になるといわれている。
「なんとなく、でも構わない。三嶽くんの直感では?」
「……吸血鬼では、ないんじゃあないかな。……僕が仮に吸血鬼なら、わざわざ被害者を見つかりやすい場所に放置したりしない。つぎの標的に警戒されたら面倒そうだし」
「うーん、だよね。正直、俺もそう思う」
ウルがそう言いながら、その場にかがんだ。
ウルの足下にいたのは、三嶽のそばにいつもいる白い狐、藤丸だ。
ウルは藤丸の頭を撫でながらたずねた。
「藤丸くんはどう思う?」
「私も三嶽さまに同感です。そもそも犯人は、どうやって被害者の気を失わせているのですか?」
「後頭部を思いっきり鈍器のようなもので殴りつけているみたいだ。被害者が全員、気を失うだけですんでいるのは、単純に運がよかっただけだと思う」
ウルは、ふう、とため息をもらした。
「この手口もちょっと乱暴過ぎて、吸血鬼のイメージとはちがうんだよな……」
そのとき、研究所のとびらが、ぎ、と開かれた。
そっと開かれたとびらのすきまから、男が顔をのぞかせたかと思うと、ウルのすがたを見てぎょっとした。
「あっ、……」
ウルはそのようすを見て、すく、と立ち上がった。
「ああ、三嶽くん。どうやらご来客のようだ。俺はこのあたりで失礼するよ」
それからつかつかととびらへ向かって歩いていくと、
「どうぞ、中へ」
にっこりと笑って、その男をやや強引に部屋のなかへと押しこむと、自分は軽く会釈をして外へと出て行った。
うしろでとびらを閉められてしまい、男は気まずそうに三嶽を見た。
「お話中だったのに、申しわけありません……」
男は背が高く、細身だ。
顔立ちは整っているが肌の色は青白く、ケープつきの黒いキャソックを着ていて、どこか月夜や氷を思わせるような、冷たい印象の風貌だった。
「どうぞおかけください」
三嶽は、男を椅子に座るようにうながした。
男はおずおずと椅子に座ったものの、どこか落ち着かないようすだ。
「……ヘンルィク・アッシュと申します。……実は最近、つきまといの被害にあっているんです」
「なるほど」
三嶽は向かい側の椅子に座ると、大きくうなずいた。
「つまり、その相手に『怪異』のうたがいがあるというわけですね」
「いえ、……相手は若い人間の女性です」
三嶽はそれを聞いて、思わずきょとんとしてしまった。
「……お相手が人間なら、この『怪異研究所』よりも先ほどの人物に話をしたほうが。彼は……」
「警部さんですよね、知っています。でも、警部さんにはこちらの事情を知られたくないというか……その……」
ヘンルィクは、ようやく決心したように、きっと顔をあげた。
「……実は私、……『吸血鬼』なんです」
今度こそ、三嶽はおどろいてしまった。