首なし幽霊・後日譚


……ポーン……、……ポーン……

真夜中、チカコはなにかの音で目を覚ました。
くぐもったようなその音は、とびらの向こうからかすかに聞こえてくる。

……ポーン……、……ポーン……

チカコには、その音がなんの音か、すぐにわかった。

……あれは、ピアノの音だ。
しかも、この屋敷に置いてあるピアノの音。

ピアノを置いた部屋は防音壁で囲っているので、聞こえるといってもほんのわずかだ。
日中の仕事に疲れて眠っている使用人たちは、気がつかないかもしれない。

……尾ノ首がピアノを弾いているのだろうか。
夜中には弾いてはいけないと、きちんと言いつけたはずなのに……。

なにはともあれ、屋敷の外にまで聞こえていたら迷惑になる。
……いますぐピアノを弾くことをやめさせないと。

チカコは枕元に置いてあった蝋燭に火を灯すと、柄(え)のついた燭台を手に持った。
ほう、と周囲が明るくなり、その灯りのなかに、突如、人のすがたがぼうっと浮かび上がった。

チカコは危うく悲鳴をあげそうになった。

「おっ、尾ノ首さん!? どうして寝室に入ってきているんですか!」

そこにいたのは尾ノ首だった。チカコは頬に平手打ちでもしてやろうかと思ったが、そもそも尾ノ首には顔がない。
そのことに気がつき、チカコはなんだかおかしくなってしまい、同時に冷静さをとりもどした。

尾ノ首を見てみると、なぜだかわたわたと慌てている。
もしかすると、眠っているチカコを起こすわけにもいかず、部屋のなかでずっとそうしていたのかもしれない。

……ポーン……、……ポーン……

あいかわらず、ピアノの音は聞こえ続けている。
ここでチカコは、ようやくこのおかしな状況に気がついた。

「……待って。尾ノ首さんがここにいるなら、あのピアノはだれが弾いているの?」

夫は留守だし、使用人たちが勝手にピアノに触ることもありえない。

尾ノ首はちょいちょい、と、とびらの向こうを指差した。
どうやらピアノの部屋へいっしょに行こう、と言っているらしかった。

「……まさか、泥棒ではないわよね? ただの泥棒だったら、尾ノ首さんのすがたを見たら逃げ出すでしょうし……」

そう考えると、尾ノ首の存在って、案外防犯になるのかも。
チカコはそんなことを考えながら、尾ノ首といっしょにピアノの部屋へと向かった。


チカコがおそるおそるとびらを開けると、とたんにピアノの音がはっきりと聞こえてきた。
ピアノのうえにはランタンが置かれており、ピアノの周囲をぼんやりと明るく照らしている。

チカコはそこにいた人物を見て、息をのんだ。

「……す、雀さん……!」

ピアノの鍵盤を押していたのは、あの雀零崇だった。
雀はチカコに気がつくと、にこ、と笑顔を向けた。

「あ、チカコさん。すみません、やっぱり起こしちゃいましたよね……」

三嶽から、大まかな事情は聞いている。
こころの底からすまなそうに眉を下げているが、この人は尾ノ首を殺した人だ。チカコの背筋が、ぞっと冷たくなった。

思わずとなりの尾ノ首を見ると、尾ノ首は肩をすくめてみせた。
……彼はおびえてはいないが、困惑しているようすだ。

「雀さんは……ここでなにをしているんですか?」

雀は鍵盤を弾いては、工具を使ってピアノのチューニングピンを回している。
作業を続けながら、雀はおもむろに口を開いた。

「僕、この地区から夜逃げするって言いましたよね。……でも、いざ離れようと思うと、このピアノのことが気になってしまって……、だから、お別れのあいさつに調律をしていたんです。正面からお願いしたら断られるかもしれないと思って、こっそり忍びこんでしまいました」

雀はしばらくのあいだ、弦をゆるめたり、引っ張ったりしていたが、やがて最後の弦を調律し終えると、ふっと短いため息をついた。

「これで終わりです。……チカコさん、最後まで調律させてくださってありがとうございました」

雀はチカコに向かって頭を下げると、ピアノを振り返った。

「……それと、ごめん。いっときの感情で、あなたをいわくつきのピアノにしてしまった。……たしかに僕は、最低でした」

なにも言えずにいたチカコに、雀が近づいてきた。
尾ノ首がさっとチカコのまえに立ったものの、雀に軽く押しのけられる。

雀は、手のうえに乗るくらいの大きさの、正方形の紙袋をチカコに手渡した。
紙袋は平たく、そこまで重さは感じなかった。

「中に入っているのはあのピアノの弦です。先ほど1本だけ付け替えました。……尾ノ首さんは、ピアノから離れられないんですよね。ピアノの一部であるこの弦を移動させれば、いっしょに尾ノ首さんを屋敷の外に出すこともできるんじゃあないかなと思って」

そう言って、冷ややかな視線を尾ノ首に送った。
尾ノ首はびくりとして、チカコのうしろへと隠れてしまった。

尾ノ首に対するその冷たさと相反する行動に、チカコはふしぎそうな顔をした。

「どうして……、尾ノ首さんを自由にしようと?」
「あのピアノにとっては、もうここしか居場所がありません。尾ノ首さんが憑いていることが原因で、チカコさんに捨てられてしまうことがあったら残念なので」
「……ほんとうにピアノがお好きなんですね」

チカコは手にした紙袋をじっと見つめた。
そのあいだに雀は工具を片付けると、帽子をかぶった。

「それじゃあ、僕はこのあたりで……」
「……ピアノの調律って、だいたいどのくらいの頻度でするものなんですか?」

チカコが雀にたずねた。
雀はすこし驚いた顔で、答えた。

「少なくとも、年に1度は調律したほうがいいですね」
「わかりました。……では、一年に一度、このピアノの調律にいらしてください」
「……え」

チカコの言葉に、雀の顔がみるみると明るくなっていった。

「い、いいんですか?」

チカコはため息をついた。

「ただでさえうちには幽霊がいるのに、雀さんまで生き霊にでもなったら嫌ですもの」
「やだなあ、どうして僕が生き霊になるんですか」

雀は冗談と受け取ったようだったが、チカコは内心、本気だった。
尾ノ首よりも、雀のほうがずっと怖い。この人は、人を殺してしまうほど強い、ピアノへの思いを抱いているんだから。

「ただし、三嶽先生にも話は通させてもらいますよ」
「はいっ! いやあ、うれしいなあ。一年に一度の楽しみができました」

それから雀は窓に向かおうとして、はた、と振り返った。

「……あ、帰りは玄関からのほうがいいですかね?」


────その後、伏見家のピアノは、『幽霊にも魅入られるピアノ』として、じわじわとその評判を広めていった。
そのうち、マツリカ国一の名器……なんてうわさされるようになる日も、あるいはそう遠くはないのかもしれない。

後日譚・おわり
2020/01/16 擱筆