ピアノレッスン(c)


「さあ、ここから先はひみつの特訓よ。 ミカミくんと結子ちゃんは、リビングで待っていてね。チャコもリビングにいるわよ」

縫針先生にそう言われ、ミカミと日高さんはしぶしぶ別室へと移動した。
雀さんは帰りじたくをしたあと、縫針先生に声をかけた。

「あ、そだ、縫針先生。あしたは月見坂の体育室のピアノを使うんですよね?  僕はすこし早めに学校に行って、ちゃちゃっと調律を終わらせておきますから、お昼はごいっしょしません?」
「あら、いいわね。それじゃああしたの正午までには、第一体育室に行くわ」
「りょーかいでっす!」

雀さんはにこにこと手をふると、「それじゃ彩人くん、まったねえ!」と言って、そのまま帰って行った。

ピアノの部屋に、僕と縫針先生だけが残った。
とたんに、なんだかいつもの空間にもどったみたいだった。

「縫針先生」

僕はおずおずと、縫針先生に声をかけた。

「ん、どうしたの?」
「……ずっと言いそびれていたんですけれど」

ミカミが聞いたら、怒るかもしれない。
でも、これは僕がまえから決めていたことだった。

「僕、やっぱり、……今日でしばらくピアノをやめようと思います。 ……最後にミカミたちのまえで一曲弾けて、よかった」

縫針先生はというと、その言葉を予測していたかのようだった。
ざんねんそうに肩をすくめると、縫針先生は言った。

「そろそろ、そういう頃合いかな、とは思ってた。 アルバイトをしながら学校に通って、家にピアノもないんじゃ、きびしいものね。 でも、ピアノをきらいになったわけじゃ、ないのよね?」
「……はい」

しかし僕には正直、それがほんとうの答えかどうかは、わからなかった。

僕の人生は、ピアノしかない人生だった。
いまさらやめることを決意したって、もう、たぶん一生、ピアノなしでは生きられない。

でも、ピアノがなければ、ピアノさえなければ。
僕はもっと身軽に、気楽に生きられたんじゃあないか。

……そんなことを、僕はもう、ずっと考えていたのだった。

「ね、彩人くん」

縫針先生は近くの椅子に腰をかけた。
僕はまだ、ピアノの椅子に座ったままだった。

「あなたはこれからもどんどん上達して、もっともっと、うまくなっていける。 いまは続けることがむずかしくても、またいつかピアノを弾こうと思ったとき、 もうおそすぎるなんてことはぜったいにないから。……だから、これが『最後』だなんて言わないで」
「……縫針先生」

縫針先生の言葉に、すこしこころが軽くなった自分がいた。
……自分で考える未来はいつも暗いものだけれど、縫針先生が指し示す未来は、なんだか明るいもののように思えた。

僕に向かって、縫針先生は片目をつぶった。

「ピアノを弾くいい仕事があったら、私もあなたに回すようにするから、そのくらいは引き受けること。いいわね?」
「……ありがとうございます、先生」

それから縫針先生は立ち上がって、のびをした。

「……んーっ! それに、今日もちゃんとレッスンはするわよ!  さあ、さっそく始めましょうか。それとも先に、お菓子でも食べる?」