なにか一曲弾いてあげて、と縫針先生に言われ、僕はピアノの椅子に座った。
コンサート会場で、ともなればまた話は変わってくるだろうけれど、
一般住宅のひと部屋でピアノを弾くのに緊張はしない。
最初の一音。
こん、と鍵盤をしたまで押しこむ。
うん、さすがは縫針先生の家のピアノだ。学校のピアノとはまたちがう、いい響きがする。
調律したばかりということもあって、いつもに増して透き通った音だった。
しかし、緊張はしないといっても、
知り合いや自分のクラスメイトにこれだけ至近距離で聞かれるとなると、なんだかむずがゆい思いがした。
(そうか、いままでは『お客』を相手に弾くことばかりだったもんな)
ミカミが月見坂にやってくるまで、僕には特に仲のいいと呼べる友だちもいなかった。
ピアノが家にあったころは、学校が終わればすぐに家に帰り、ピアノの練習をした。
ピアノがなくなってからは、僕の放課後の相手はピアノから、アルバイトへと変わった。
そんなだったから、学校以外の場所で友だちと会うようなこともなかった。
だからもちろん、ピアノを聞かせられるような友だちもいなかったし、聞いてもらおうだなんて思ったこともなかった。
僕はそのうち、一曲の演奏を終えた。
ふう、と息を吐いて両腕を鍵盤からおろすと、そのとたん、四人分の拍手が聞こえた。
日高さんはぱちぱちと手を叩きながら、興奮したようすで言った。
「すごい! 山吹くん、将来はぜったいに世界中からひっぱりだこのピアニストになるよ!」
「日高、それはよろこぶべきなのか? それとも彩人となかなか会えなくなることを悲しむべきなのか?」
「なに言ってるの、ミカミくん! もちろんよろこぶべきだよっ! ミカミくんは山吹くんのことを好きすぎ!」
にぎやかな日高さんとミカミのやりとりのうしろで、雀さんと縫針先生が笑っている。
「いやーっ、もともと彩人くんのピアノスキルは目をみはるものがあったけれど、また腕をあげたんじゃない?」
「まだまだ成長期だもの。ねえ、彩人くん?」
僕はふたりに、あいまいな笑みを返した。
(……へんなの)
慣れない光景だ。
家族がそろっていたときだって、こんななごやかな場面はなかったように思う。
でも。
(まあ、わるくはない、かな)
僕はしばらく、やいのやいのと言い合う四人のすがたをながめていたのだった。