音楽室の幽霊(e)


その日の昼休み、僕とハジメは昼食を早めに済ませると、職員室で音楽室の鍵を借りた。

「ハジメ、十二時四十分になったら、音楽室のピアノを強めに弾いてほしい。鍵盤は、どこを弾いても構わないから」

ハジメがこくり、とうなずくのを確認してから、僕は校舎を抜けて、学校の敷地の外に出た。

砂辺さんの言っていた本屋のシカク堂は、校舎を背にして左前方にある。
学校とシカク堂の間には片側一車線の道路があり、道路脇には小さな商店と住宅が並んでいた。

道路を渡れば、もうそこがシカク堂だ。
年季の入った、小さな店構え。入り口の上に掲げられた看板は色あせていて、薄汚れている。

僕は、そのシカク堂の前に立って、学校のほうを向いた。

こうして立ってみると、学校はかなり賑やかだった。
生徒たちのさわぐ声が、風に乗ってうねるようにここまで聞こえてくる。

僕は腕時計を眺めながら、約束の時間になるのを待った。
そして十二時四十分。

……ハジメが鳴らしているはずのピアノの音は、まったく聞こえてこなかった。
念のため、五分間はそこから動かなかったけれど、車道を走る車の音、それに町の騒音のなかで、それらしい音は見つからない。

想像していたとおりだ。
校舎の前に、校庭がある。校庭の前に、道路がある。
その先にあるシカク堂までだと、学校の屋内のたったひとつの鍵盤楽器の音を拾うには、距離があり過ぎる。

それに砂辺さんが聞いたのは、たどたどしい音だったと言っていた。
ピアニストが叩き出すような迫力のある音色ならまだしも、そんな弱弱しい音では、なおさらだ。
つまり、もともとピアノの音は、音楽室から聞こえてくるものではなかったのだ。

僕は次に、シカク堂のなかへと入った。

店内は狭く、ひしめく本棚と本棚の間の通路は、人一人、通るのがやっとだ。 その本棚も天井近くまであり、狭い店内を余計に圧迫し、薄暗くさせている。
シカク堂の店主である老齢の男性は、一番奥にある勘定台の内側で、本を読んでいた。

「あの、すみません」

僕は彼に、声をかけた。
店主は老眼鏡を下げると、上目遣いにこちらの様子をうかがった。

「……うん? おや、どうかしたかい?」
「ひとつ、お聞きしたいことがあるのですが。……この近所で最近、ピアノを始めた人って、ご存知ですか?」

今年に入ってから聞こえ始めた、たどたどしいピアノの正体。
それはおそらく、……学校のごく近くに住む家の住人が、慣れないピアノを鳴らす音だったに違いない。

「ピアノ……、ああ、おるよ」

そして老人は、あっさりとうなずいた。

「通りをはさんだ向こう側の、そう、ちょうど学校のすぐ隣に住んでいる、穂坂さんのところの娘さんじゃよ。 たしかあの子もお前さんと同じ、古山高校の学生だったかな?」

言い当てられて一瞬どきりとしたけれど、この時間に学ランを着てここに来るのは、たしかに古山高校以外の生徒ではあり得ないだろう。

「あれは今年の始めごろじゃったか……、そのころにピアノを習い始めたと、あの子の親御さんから聞いたのう」
「ありがとうございます、もう十分です」

僕は老人に礼を言うと、シカク堂を後にした。

……ピアノを弾くお化けの正体は、穂坂さんだった。
穂坂さんとも去年、同じクラスだったから、顔くらいは知っている。 クラスのなかでも目立たない、おとなしいタイプの女子だ。

自分の弾いたピアノを、あまりうまくない、不気味だ、などと言われ放題だった穂坂さんは、さぞかし居心地が悪かっただろう。
ましてや、もしそれが自分のピアノの音だということがばれてしまったら、みんなの盛り上がりに水を差してしまう。
そうとなれば穂坂さんは、気まずい思いのまま口を閉ざすしかない。

……たしか今年、穂坂さんは翠と同じA組の生徒だ。
もしかすると、翠は学校の近くに住む穂坂さんがピアノを習い始めたことを、すでに知っていたのかもしれない。
そして彼女の心情を察して、犯人探しはせずに、お化けのせいにしようなどと言ったのだ。

僕は学校にもどり、ハジメと合流すると、穂坂さんの名前だけを伏せて、ことの真相を手短に伝えた。

「……そういうわけだから、実際にはお化けなんていなかったわけだけれど、やっぱりこれはお化けのせいということにしておきたいんだ。 問題は、どうやって『お化けの仕業だった』ことを砂辺さんに納得してもらうか、なんだけれど……」

そこまで聞いたハジメが、僕の肩をぽん、と叩いた。

「……俺に、任せて」

めずらしく、ハジメがそう、口を開いた。
僕がそのことに驚いていると、ハジメは僕の目を見ながら、一度だけうなずいてみせた。