エピソード#7 白河カオル2



オレ、──白河カオルはいま、北の地にある小さなペンションにいる。
ペンションというのは、西洋風の民宿といったところで、ぱっと見は民家のように見えるものも多い。

このペンションを管理しているのは、すでに経営から手を引いたとある老夫婦だ。
そのため、いまはここに宿泊客はいない。……オレとヨシノ以外は。
オーナー夫妻の完全なる厚意により、オレたちは特別に長期滞在を許されているのだ。

……というのは、ここにやって来てはじめてヨシノから聞いた。

ここまで、ずいぶんと長い旅路だった。
生まれてこのかた、こんなに長い時間、電車に乗ったことはなかったし、長く歩いたこともなかった。
道中、オレは行き先を知らなかったが、ヨシノがどこかを目指しているようだったので、オレは黙って彼のあとをついていった。

そうして辿り着いたのは、見渡す限りの丘陵(きゅうりょう)が広がる大地だった。
遠くには山々が連なり、ペンションの裏手は雑木林。ぽつりと建つペンション以外は民家もほとんどない。

そんな大自然の果てにオレンジ色の夕日が沈んでいき、長い影を落としていく。

夏が終わろうとしていた。



オレはペンションに着いたその晩から、高熱にうなされた。
情けない話だが、ここまで来るのにひどく疲れてしまったのだ。

ぼんやりとしていてあまり覚えてはいないが、高熱は三日間続いたらしい。
オレはオーナー夫妻への挨拶もそこそこに、その三日間のほとんどを部屋のベッドで寝て過ごしていた。

三日目の夜、オレは夢を見た。

夢のなかで、電車の発車音が鳴る。
ここが自分の降りる駅だと気がついたオレは、あわてて電車から飛び降りる。

閉まる電車のドアの向こうを見ると、ヨシノがいた。
ヨシノはオレのことを見ていない。

やがて電車がゆっくりと走り出したので、オレはぞっとした。
──ヨシノに置いていかれる。

「……ヨシノッ!」

そう叫んだのと、目覚めは同時だった。



「おはようございます、カオル様」

ベッド脇にはヨシノが微笑みをたたえて立っていた。
手に持ったベッドトレイの上には、陶器のポットとティカップ。

家にいるとき、朝はいつもこうしてヨシノが紅茶を用意してくれていた。
そんないつもの光景、いつもと変わらないヨシノのすがたにオレは心底安堵して、乱れた呼吸を落ち着かせた。

「お顔色がすっかりよくなりましたね」

ヨシノが言った。

言われてみると、熱はもうないように感じられた。
寒気もないし、ほてりもない。頭も幾分とすっきりしている。

オレはヨシノに差し出された紅茶を口にした。
まだ温かい。いつだって彼は、オレが目覚める時間を見計らって、温かい紅茶を持ってきてくれるのだ。

「今日は快晴ですよ。夜になれば星が綺麗に見えるかもしれませんね」

そう言って、ヨシノは客室の窓の外を見た。
窓の外はもちろん、あの山々が一望できる大自然だ。その風景は太陽の光によって輝き、思わず目を細めてしまうようなまぶしさだった。

一方で、ペンションの客室は小ぢんまりとしており、ベッドが二台置かれると窮屈なくらいだ。
だが、決して居心地は悪くない。大きな窓からの眺めも見晴らしがよく、さわやかだ。

「……どうしてこんな土地へ来たんだ?」

オレはヨシノにたずねた。
ヨシノの目的がわからない。もしかするとまだどこかへ向かっている途中で、オレが足を引っ張っているのかもしれないとも思った。

ヨシノはゆっくりとオレに視線を落とすと、芝居がかった笑みを浮かべた。

「それはもう、このような大自然のなかでカオル様にゆっくりとくつろいでいただきたくて」
「……はぁ??」

予想外のヨシノの答えに、オレは途端に腹が立った。

「いやいや、オレはおまえがどこかに消えちまいそうだったからついてきたんだよ! オレは覚悟を決めたんだからおまえの行きたいところに行けよ! っていうかそんな理由ならとっとと家に帰るぞ!」
「まあまあ。せっかくここまで来たんですし、この大地の恵みを満喫しようじゃあありませんか。今日はオーナーご夫妻が朝食をふるまってくださるそうです。さあ、カオル様も支度をしましょう」

オレがしぶしぶ寝間着を脱ぐと、すかさずヨシノにサッと洋服を着せられ、手早く服のボタンが閉められていった。
時計を見ると、朝の八時。たしかに朝食にはちょうど良さそうな時間だった。



ダイニングは、窓から光が差しこんでいたものの客室よりもすこし薄暗かった。

客室と同じように大きくとられたいくつかの窓のそばには、それぞれ長方形のテーブルが置かれており、天井からランプがぶら下がっている。
部屋の隅には煉瓦(れんが)で作られた暖炉(だんろ)。

そして……もうひとつ、部屋の隅に置かれていたもの。
それは黒い艶(つや)のある……小さなグランドピアノだった。

オレがテーブルの椅子に腰をかけると、オーナーの老紳士が手慣れた様子で朝食を運んでくれた。
老紳士はにこにこと笑いながら、オレに話しかけてきた。

「具合はすっかりよろしいですかな?」
「はい、おかげさまで。あの、急に押しかけてしまってすみませんでした」
「いえ、そんなこと。この三日間、ヨシノさんがわしらのことをいろいろと手伝ってくれて、むしろこちらが助かったくらいです」

そのヨシノはというと、いまも食事の支度をしている老婦人の手伝いをしているようだった。

「おふたかたとも、お気が済むまでここにいてくださっていいですよ。年寄りふたりしかいない、つまらない家ですが」

それから老紳士は、ふとピアノに目をやった。

「ああそう、──カオルさんはピアノが得意なんだとか。カオルさんが元気になられたら、ぜひとも演奏をお聴きしたいですのう」

──苦手な話題だ。
オレのほおが、ぴり、と引きつる。

……ヨシノ、さてはこれが目的だったか。
オレにしがらみのない遠い土地で、オレにピアノを弾かせようとしているのだ。

……余計な気を回しやがって。

「……いいですよ」

それでも、オレは出されたパンを手に取りながらそう答えた。
めずらしく人前でピアノを弾く気になったのは、わずかな反発心からだった。



食事を終えたオレは、ピアノのまえに座った。

小さな頃から兄さまには敵わなかった、オレの唯一の特技。
もうピアノはやめようと何度も思いながらも、こっそりと練習を続けてきた。

でも。

オレはオレなのだ、と最近は思えるようになった。
それならオレにしか弾けないピアノを、弾いてやろうじゃないか。

オレが選んだのは、ショパンの夜想曲第二番だった。

派手さはないが、おだやかで美しい旋律。
兄さまが太陽を奏でるなら、オレは月だ。

一音一音ていねいに、鍵盤を押さえていく。
しっとりと、しずかに、優雅に、溶け出すように。

オレが弾き終わったあと、オーナー夫妻は長めの拍手を送ってくれた。

「いままで聴いたどんな演奏よりも、すばらしい演奏でしたよ」

お世辞だろうが、そんなことを言ってもらえると悪い気はしない。

オーナー夫妻のとなりにはヨシノが立っていた。
オレはうわずる気持ちを悟られないように、すこしぶっきらぼうな物言いで言った。

「……ヨシノ、これで満足か? おまえの望みどおり、ピアノを弾いてやったぞ」
「ええ、そうですね。私はカオル様のピアノが好きですから」

思いがけず、素直な言葉だった。
ヨシノの顔を見ても、いつものふくみのある笑顔ではない。

……オレは、同じようなことを言った同級生のことを思い出した。

『ぼくは白河くんのピアノ、好きだよ』

いつも無口な彼が、そう言ってくれた。
あのときも、いやな感じはしなかった。

老紳士が言った。

「カオルさんは、きっと立派な音楽家になられるでしょうなあ」

気を抜くと、泣いてしまいそうだった。

そうだ。
オレは嬉しかったんだ。

だれかに好きだと言われると。
それだけでオレはオレのことを、許してもいいような気になれるんだ。

オレ、ピアノを弾いてもいいのかな。
……兄さまが諦めた夢。……オレが諦めた未来。

「カオル様、どこへでも行くご覚悟を決められたのでしょう?」

ヨシノが言う。軽口のような言いかただが、目は笑っていない。
いつもは伏し目がちの瞳が、いまはまっすぐとオレのことを見据えている。

どうやらオレは、この駆け引き上手の使用人に、まんまとはめられたらしい。

……まあ、ヨシノだもんな。
してやられるのは、いつものことだ。

オレは肩をすくめながら、ぼそりとつぶやいた。

「ヨシノ、せいぜいフランス語を勉強しておくんだな」
「え?」
「おまえがその気なら、乗ってやる。どうせなら海の向こうの音楽院、目指してやるよ」

ヨシノが数度、瞬いた。
それから彼は、らしくなく顔をほころばせて笑った。

「どこまでもお供しますよ、カオル様」

おわり
2022/03/29 擱筆