エピソード#6 米坂くるみ


ご注意:この小説は『絵画泥棒と書きかけの解答』のネタバレ要素を多く含みます。
該当する小説を未読のかたには不親切な描写が多々ありますので、ご注意ください。


十二月二十四日。

太陽は、地平線へと沈んでしまった。
世間的には今日はクリスマス・イヴであり、多くの教派で晩の礼拝が行われる。

街なかはきらめくイルミネーションで賑わい、人々はどこか浮かれた足取りだ。 この夜はきっとみんな、大切な家族とともに過ごすのだろう。


米坂くるみは、高いビルの屋上から、そんな街を冷めた眼差しで見下ろしていた。

ここからはちょうど、ひときわ大きなクリスマスツリーが目に入る。
クリスマスツリーにも、もちろんカラフルな電飾が飾られていた。

まばゆい光に包まれたツリーを眺めながら、くるみは小さなため息をついた。

この街のどこへ行っても、たぶんこの国から離れても、クリスマスからは逃れられない。

クリスマス特有の、あの浮ついた音楽がこの屋上まで届かないことが、せめてもの救いだった。

「……クリスマスは、きらいかい?」

とつぜん声をかけられて、内心おどろいた。
しかしその声色はくるみのよく知ったものだったので、表情には出さない。

となりを見ると、いつの間にか米坂ノアが立っていた。
いつものようにハンチング帽をかぶって、厚手のコートを着て。

くるみは小首をかしげた。

「わざわざここまで、私を探しに来たの?」
「うん、……と言いたいところだけれど、探し出せる自信がなかったから、つけてきた」

……さすが泥棒、といったところか。
尾行されていたことに気づかないなんて、私もまだまだね、とくるみは自嘲した。
そんなくるみの心中を知ってか知らずか、ノアは続けた。

「十二月に入ってから、目に見えてきみの元気がなかったからね。もしかして、と思ったのさ」

くるみはふたたび、クリスマスツリーに目を向けた。
そうして長い沈黙のあと、ぽつり、とつぶやいた。

「はじめて盗んだのは、ライ麦のパンだったの」

思いがけない話だったので、ノアはなんと声をかけたらいいのかわからなかった。
くるみは気にすることなく、続けた。

「……私には昔、実兄がいたの。私の『家族』は兄をとても大切に可愛がって、愛していたわ。あまりにその愛が大きすぎて、家族は私がその家にいるということも、忘れてしまったのね」

くるみはふ、とうすく笑った。

「十二月二十五日、……クリスマスの日は、そんな兄の誕生日だった。その日はいつも、とても盛大に祝われるのよ……、私なんて、生まれてから一度も誕生日なんて祝われたことないのに。あるとき、なにもかもいやになって、兄の誕生日の朝に家を飛び出したわ。おなかが空いて、でももう帰る場所もなくて、手を伸ばしたのが店先のライ麦のパンだった」
「……いつの話だい? きみはそのとき、いくつだったんだ?」
「婦女子に年齢を尋ねるのはマナー違反よ」

気取った顔で、しかしどこかさびしげに、くるみは言った。

「質問の答えは、『だいきらい』。世界が兄を祝っているみたいだから」
「それなら、盗んでしまえばいいさ」

ノアが不意に言って、眼下に向かって指を鳴らした。

ぱちん。

乾いた音と同時に、先ほどまであれほどきらびやかだったクリスマスツリーの灯りが、ぱっと消えた。
地上の人々のざわめきが風に乗って聞こえてくる。どうやらその場にいたすべての人間にとって、予想外の出来事だったらしい。

くるみのとなりに立つ『泥棒』だけが、そんな状況を楽しむかのように、含み笑いをしている。

「……あなたがやったの? どうして?」

くるみが戸惑いながらノアにたずねると、ノアはくるみに向き直った。
そして、閉じていたその手を開いてみせた。

ノアの手のなかには、ひとつの宝石が輝いていた。

ピンキッシュ・オレンジに輝く小さな宝石。それはまるで、水面に浮かぶ睡蓮の花のようだ。
パパラチアサファイアだと、くるみはすぐにわかった。

ノアは宝石を差し伸べながら、片膝をついた。


「世界一、愛しいきみに。……クリスマス、おめでとう」


今度こそおどろいたくるみがおそるおそる手を差し出すと、ノアは宝石をくるみの手ににぎらせた。
それから立ち上がり、自分の手をくるみの手に重ねた。

ひやり、と冷たいノアの指先。
そういえば、手袋をしていない彼は珍しい、とくるみは思った。

「さあ、家へ帰ろう。ヨハンがひとりだと寂しがる」

帰り道は、街なかをふたり並んで歩いていった。
夜の散歩は、どちらかというと屋根づたいのほうが多かったので、こんな賑やかな街なかを泥棒ふたりが闊歩していると考えると、くるみはふしぎな感じがした。

灯りの消えたクリスマスツリーのまえを素知らぬ顔で通り過ぎて、そのあとふたりでくすくすと笑った。

ひとしきり笑ったあと、くるみは小さな声でつぶやいた。

「……あなたほどの泥棒は、そういないと思うわ」
「? なにか言ったかい」

振り返るノアに、くるみはつんとすまし顔で答えた。

「いいえ、なにも」

……だって、なにもかもあなたに盗まれてしまった。


過去の苦い思い出も、

クリスマスのさびしさも。

おわり
2020/12/23 擱筆