────もしかすると、あのできごとがオレにとって、いちばん古い記憶かもしれない。
まだオレと、オレの兄さま……白河(しらかわ)ハルカが、ほんの子どもだったころ。
オレと兄さまはその日、家のまえの庭に敷かれた、青々とした芝生のうえで遊んでいた。
「にいさま、おはな!」
「それはユリだよ」
「にいさま、ちょうちょ!」
「それはキアゲハっていうんだよ、カオル」
父さまは不在、母さまはもともとからだが弱く、その日も家のなか。
あのころはまだヨシノもいなかったし、ほかの使用人は母さまの世話と家の仕事に追われていた。
広い庭に、兄さまとふたりきり。
それはなんだか特別なことのようで、幼いオレはいつも以上にはしゃいでいた。
花についた虫を夢中になって眺めていたオレに、兄さまがふと、声をかけてきた。
「カオル、ごらんよ。……あそこにネコがいる」
はじめに気がついたのは兄さまだった。
兄さまが指差した方向を見やると、庭の片すみに、たしかに黒ネコのすがたがあった。
黒ネコは香箱(こうばこ)座りをしたまま、じっ、と動かない。
ちょうどあのあたりに日の光が落ちているので、あたたかいのだろう。
オレたちはそっと目配せしたあと、そろそろと黒ネコに近づいていった。
黒ネコはすぐにこちらに気がつくと、オレたちのことを凝視した。しかし、そのまま動こうとしない。
オレはどうしても、その黒ネコにさわってみたかった。
なのに、あとすこしで指先が触れる、というところで、黒ネコがすくり、と立ち上がった。
「まって!」
オレはさけんだ。
「……カオル!? ダメだ……ッ!」
オレの手が出たのと、兄さまの制止の声はほとんど同時だった。
よせばいいのに、オレは黒ネコを逃(のが)すまいとして、そのしっぽをつかんでしまったのだ。
とたん、黒ネコの形相(ぎょうそう)がおそろしいものへと変わった。
しまった、と自分でも気がついたが、もう遅い。
黒ネコは剥(む)き出しにした爪を掲(かか)げて……
────ひっかかれる!
オレが目をかたく閉じて顔をそむけたとき、
「……いッ……!」
兄さまの、なにかをこらえるような声が聞こえた。
オレがあわてて目を開くと、もう黒ネコのすがたはどこにもなく、かわりに、自分の左手をきつくおさえている兄さまのすがたがあった。
兄さまの左手からは赤い血が伝い、ぽたりと芝生のうえに落ちていった。
オレはそれを見て、さっと青ざめた。
「……!? にいさま、……ちがでてる!」
「ああ、ちょっとひっかかれただけだよ。だいじょうぶ、こんなのすぐに治るから」
兄さまがそう言って、オレのからだをぎゅっ、と抱きしめた。
「カオルがケガをしなくてよかった……」
オレの服の布に、兄さまの血の赤色がにじんでいくのを見て、オレはほんとうにこわくなった。
とんでもないことをしてしまった。
兄さまは、ネコにひっかかれそうになったオレをかばって、ケガをしたんだ。
兄さまがこのケガのせいで、……ピアノを弾けなくなってしまったらどうしよう。
────結果としては、オレのそんな心配は杞憂(きゆう)に終わった。
あのあとすぐに、兄さまは母さまにきちんと手当てをしてもらい、さいわいなことに傷あとも残らずにすんだのだった。
だから兄さまは、あのできごとのことなんてもう忘れているかもしれない。
でも、オレはあれ以来、どうしてもネコが苦手になってしまった。
そして。
あのとき苦手になったものが、実はもうひとつあった。
……その「苦手」は、ネコに比べたら大したものではなかったのかもしれない。
でも、あれから十数年経ったいまでも、オレはまだ、苦手なままだ。
……オレがそばにいると傷ついてしまう、……やさしい兄さまのことが。
おわり
2020/07/25 擱筆