エピソード#4 箱守チナ


この世でもっとも美しいものとはなにか。
そう問われて、最初に思い浮かぶのは麗しいあの少女のすがた。

……高校三年生の箱守(はこもり)チナは、今日も『彼女』の通学路を注意深く歩いていく。
そして路(みち)のうえに落ちている小石を見つけては、それをひとつずつ拾い上げていった。

彼女……、『村崎みずき』が小石につまずいて転びでもしたら。
考えただけで、胸のなかがぞわりとする。

あの美しく白いひざにきずのひとつでも残ったら、一生悔やんでも悔やみきれない。

……『村崎みずき』は、今年の春に中学生になったばかりの少女だ。
長い髪はつややかで、整った顔立ちに品のいい振る舞い。

一年まえ、まだ小学生だった彼女を街なかで見かけたとき、チナはその美しさに大きな衝撃を受けた。

……おとぎ話の、お姫様だ。

ひと目惚れだった。
彼女の物語を見届けたい、と強く思った。彼女がしあわせになる、夢のような物語の観客になりたい。

それからというものの、彼女をうしろからこっそりと見守る、チナの日常が始まった。

まずは彼女の通っている学校、つぎに彼女の住んでいる家を知った。
彼女の名前、家族構成、彼女の好きなもの、きらいなもの……新たな一面を知るたびに、チナの胸はおどった。

みずきが笑うと、チナもうれしくなる。

……私のお姫様が今日も笑っている。
どうかずっとずっとずっと、彼女がしあわせでいられますように……。



アパートの一室に帰ってきたとたん、

「帰りが遅いっ!!」

と、頭ごなしに怒鳴りつけられた。
玄関で仁王立ちしていたのは、チナの姉の玲(りょう)だった。

「あたしが帰ってきたらすぐ夕飯を食べられるようにしておけって、いつも言ってるでしょ!?」
「ご、ごめんなさい……、姉さん」

チナはあわててキッチンに向かうと、夕飯の支度を始める。

姉の玲は二十一歳で、チナとはまったく正反対の性格だ。
傲慢で支配的、わがままで忘れっぽい。化粧がきつく、大きめのピアスをいつも身につけていて、衣装も派手だ。

姉とはいっても、チナと玲の血は繋がっていない。玲は、チナの父親の再婚相手の連れ子なのだ。

玲は大学を受験するときに、チナにも無理やり近くの高校を受験させた。
そして自分が大学に合格したのちには、一人暮らしはさびしいからとチナを呼び寄せた。しかしそれはただの口実で、実際はいいようにチナをこき使っているのだった。

「いまさら夕飯なんていらないわよ! あたし、貢(みつぐ)とご飯を食べてくるから。お風呂はちゃんとわかしておいてよ!」
「う、うん。いってらっしゃい」

そのとき、チナはふと、フローリングの床に不自然に置かれている布に気がついた。
もとは白い布だが、いまは赤紫色の液体をたっぷりと吸い上げて、大きな染みを作っているのがわかった。

チナにはそれがなにかわかって、みるみる青ざめていった。

「……姉さん? それ……、もしかして私の……」
「……ああ、これ?」

玲が意地の悪そうな笑みを作ると、スリッパの先でちょん、とその布をつついた。

「さっき赤ワインをこぼしちゃったから拭いたのよ。ちょうどいい『布』があって助かったわ」

放心したチナの表情を見た玲は、とたんに上機嫌になると、

「じゃあねー。お風呂、ぬるくなっていたら承知しないわよ」

と言って、そのまま部屋を出て行ってしまった。

バタン。

玄関のとびらが閉まる音とともに、チナはよろよろと、その場にへたりこんでしまった。

ワインが染みこんだ白い布。それは、チナの服だった。
……もっといえば、いまは亡きチナの母が遺した、形見の白いワンピースだった。

チナは両手で顔を覆った。

……こんなの、あんまりだ。
私がお姫様なんかじゃないのは、わかっている。

みじめな私に魔法をかけてくれる、都合のいい魔法使いはいない。
でも、私はそれなりにがんばってきたはずだ。

姉のふるまいに、長いあいだ、ずっと耐えてきた。
……でも、今日、なにかが自分のなかで終わる音がした。

チナは両手をおろした。なみだは出なかった。

愚かな姉さん。
……物語のなかで、意地悪な義姉がどんな結末を迎えるのかも、知らないの。



思いつきは衝動的だったが、行動は冷静だった。
まずはその夜、姉が寝ているうちに携帯電話をチェックした。

ちょうど一週間後、玲は彼氏の貢と他県に旅行へ出かける。
宿泊予定は山のなかの旅館、移動手段は貢のオートバイ。……まるで天からの贈り物のように、好条件が揃っている。

「……この日に『やる』しかない」

自然とそう、口からこぼれる。

幸いなことに、玲には敵が多い。
いまの彼氏の貢だって、もとはと言えばまえの彼女から奪った男だ。

……私がなにをしたって、私以外にも容疑者はいる。
玲に『罰』を与えるには、この日しかない。

チナはつぎの日から、となり街で男物の服を買い揃えた。
いくつかの工具も手に入れ、図書館では熱心に本を読みふけった。

頭のなかで、何度もシミュレーションする。
……できる。私になら、できるはずだ。

決行の日は、すぐにやってきた。
いつも寝起きは機嫌がわるい玲だったが、さすがに今日は鼻歌まじりで支度をしていた。

「チナー、気が向いたらおみやげ、買ってきてあげるけど? なにか欲しいものある?」
「姉さんが選んでくれたものなら、なんだってうれしいわ」
「フン、あんまり期待しないでよ」

チナは笑顔で玲を送り出すと、あらかじめ引き出しに隠しもっていた現金をすべて持ち出し、家を出た。
近くの駅のコインロッカーにあずけてあった荷物を取り出し、トイレで男物の服に着替える。
帽子を目深にかぶり、メガネをかけ、大きめのリュックを背負い、チナは電車に飛び乗った。

駅からは、バスとタクシーを使った。
念のため、タクシーも何度か乗り継いで、旅館からはだいぶ離れたところで降ろしてもらい、夜になるのを待った。

そして、夜。
チナは近場で盗んだ自転車に乗って、旅館へと向かった。

二十一時も過ぎれば、旅館のフロントも消灯し、心もとない街灯をのぞけば、周囲は真っ暗だった。
チナはまず、駐車場に防犯カメラがないことを確認する。

もしも防犯カメラが設置されていた場合は、カメラを壊さなければいけない。
これだけが気がかりだったが、問題はないようだ。どこにも見当たらない。

チナは貢のオートバイを見つけると、そのうえにリュックから取り出したウエスをかけた。

つぎにドライバーで、オートバイのブレーキフルードが入っているタンクのふたのねじをゆるめていく。
駐車場の電灯にほどよく照らされていたので、懐中電灯を使わずにすんだのはうれしい誤算だった。

なかのキャップは固着していて、少しちからが必要だったが、それでもなんとか開けることができた。
そこから、今度はスポイトを使って、フルードを抜いていく。

このフルードをすべて抜いてしまえば、ブレーキが効かなくなる。
ただ、それだとエンジンをかけるときに、ブレーキが効かないことにすぐ気づかれてしまうだろう。

そこでチナは、あえてフルードを少しだけ残し、ふたを閉じることにした。
これで、ブレーキの効きはすこぶるわるくなったが、乗れないほどでもない。

ふつうの車道だったら、これでもなんとかなるだろう。

しかし、ここは山のなかだ。
帰り道はずっとくだり坂で、急カーブも多い。

ブレーキが効きにくいオートバイでこの道を行くことがどんなに危険なことなのか、あの玲と貢に理解できるとは思えない。

懸命な判断ができず、相応の運転技術も持たずに。
もしもチナの思惑どおりに、彼らが明日、事故を起こすのならば。

……それこそが、玲にくだされる『天罰』なのだ。

あとは神様が決めてくれる。
……チナは自転車で山をくだると、人気のない場所に自転車を乗り捨てた。

その後、またタクシーに乗って、深夜一時の終電に乗りこむ。
そうして夜が明けるまえに、チナは無事に部屋へともどったのだった。



ぐったりと疲れていたが、チナの神経は興奮して、眠ることはできなかった。

ひとつだけ、気がかりなことがある。
それは、玲が部屋を出てからいままでのあいだ、チナ自身のアリバイがない、ということだ。

もしも事故が起きたとして、ブレーキフルードの減りに気がつかれたら?
それよりも、不審者の目撃情報があがって、自分に疑いの目が向けられたら?

いくら容疑者がほかにもいるといっても、チナは自分が最後までうまくごまかし通せるか、自信がもてなかった。

カレンダーを見る。今日は日曜日。
村崎みずきが朝食後、散歩をしに出かける曜日……。

そこでチナは、もう一週間もみずきのすがたを見ていないことに気がついた。
みずきに出会ってからいままで、こんなに長い期間、彼女から目を離したことはなかった。

気がつくと、外はもう朝になっていた。

……みずきに会いたい。
きれいなものを見て、自分の汚いこころを、洗い流したい……。

(いますぐ、お姫様に会いに行こう……)

そうしてチナはアパートの部屋のとびらを開けて、ぎょっとした。

なんと目のまえに、あの村崎みずきが立っていたのだ。
とつぜん開いたとびらにおどろく様子もなく、みずきはまっすぐにチナを見据えている。

「……お姉さん、どうしてこの一週間、私のそばにいなかったんですか?」

みずきが言った。絹のような、美しい声だ。

「いままで毎日、私のことを見ていましたよね」

チナはごくんと生つばをのんだ。

そんな、まさか。
……あの美しいお姫様が、私なんかに目をかけてくださっていたなんて!

チナは感動にこころを震わせた。
そして同時に、彼女には嘘偽りなく接したい、失望されたくない、と思った。

チナは、みずきを部屋のなかへと招き入れた。

そして、チナはなんの迷いもなく、自分がこの一週間なにをしていたのか、彼女にそのすべてを打ち明けた。
もちろん、今夜どこにいて、そこでなにをしてきたのかも。

みずきは大きな瞳をまたたかせながら、静かにチナの話に耳を傾けていた。
そんな彼女に、チナもまたずっと、ひとりで話し続けた。

「……うまくいけば、九時ごろには『こと』が起こるはずです。そして私の携帯電話に連絡がくるはず。先ほどもお話したように、私にはアリバイがありません。ひとつでもほころびが見つかれば、私が疑われることは免れないでしょう」
「……それなら、私が証人になってあげましょうか」
「え」

おもむろにみずきが口を開いた。しかしチナはなにを言われたのか一瞬理解できず、みずきの顔を見た。
みずきはおもしろいいたずらを思いついたような顔で、言った。

「私、きのうはひとりで留守番をしていたの。だれにもすがたを見られていないわ。それなら、逆にどうとでも証言できる。……そうね、私たちはずっとまえから友だちだった。あなたはきのう、私の家に勉強を教えにきていた。……どうかしら?」

チナは、信じられないというように首をゆっくりと横にふった。

「……みずき様、なにをおっしゃっているんですか。なぜ、見ず知らずの私に、そこまで……」
「私、あなたに見つめてもらえて、うれしかったのよ」

みずきはさらりと言った。

「この一週間、あなたのすがたが見えなくて、とてもさびしかった。……ねえ、あなた、これからひとりぼっちになるんでしょう? 私のことがそんなに好きなら、私の使用人にならない?」

そんなことが。
チナは、みずきの真意をその表情からうかがおうとした。

しかしみずきは、愛らしいほほえみをチナに向けたままだ。

「私、あなたにもっと近くで、見つめてもらいたいの」

チナの目から、なみだがこぼれた。
……いままで、あなたのしあわせをどれだけ望んでいたことだろう。

私の愛しいお姫様。彼女の物語の観客であるこの私が。
……同じ舞台にあがることを、許してくださるというのですか。

チナのポケットのなかで、携帯電話がふるえた。
はっとして時計を見れば、九時をすこし過ぎたころだった。

おそるおそる携帯電話を取り出したチナを見て、みずきは小さくうなずいた。


「おめでとう、チナ。……きっと、うれしい報せね」

おわり
2019/09/01 擱筆