ご注意:この小説は『きせつの本編』のネタバレ要素を多く含みます。
該当する小説を未読のかたには不親切な描写が多々ありますので、ご注意ください。
────からだがだるい。
気分は最悪で、頭も痛い。
音羽はまるで電池が切れた玩具のように、体を丸めて転がっていた。
床には、絵画の製作時にあちらこちらに飛び散って付着した塗料の跡がこびりついている。 ほかにも紙や布、木の板の山、ペンキの缶、大量の筆……、室内はものに埋め尽くされ、雑然としていた。
それでも、音羽にとってはこのマンションの一室が、いちばん落ち着く空間だった。
鼻先の携帯電話を手に取れば、バックライトが目にしみる。
そうして、なんの通知もないことを確認すると、音羽はいらいらと携帯電話をふたたび床に投げ出した。
あれから二ヶ月は経つだろう。
もうずっと、こんな調子だ。
そう……、白河カオルがすがたを消してからというもの、音羽は一枚も、絵を描けずにいた。
あれだけうっとうしくまとわりついておきながら、カオルはある日、煙のように消えてしまった。
しかも、音羽には一度も連絡がないときた。
「……いったい、なんだっていうのよ。……ふざけんじゃないわよ」
そのとき、マンションの呼び鈴がなった。
一瞬どきりとするが、カオルだったら呼び鈴は鳴らさない。
「山吹先生、絵を引き取りに来ました」
その後、ガチャリと玄関のとびらが開いて、赤月家の御曹司、赤月誠が入ってきた。
音羽があまりにも居留守を使うものだから、いつの間にか、勝手に合鍵が作られていたらしい。……これだから金持ちは信用できない。
高校の制服姿の誠は、いつもと変わらずにこにことしたまま、言った。
「その様子だと、さては絵画どころか、食事もまともにしていませんね」
「……うるさい」
いままで世に出回った音羽の絵画は、すべてこの誠を通して、オークションに売りに出されたものだ。
当初、作者の名前は無名としていたものの、その技術力の高さと洗練された作風から、次第にミステリアスな覆面画家としてうわさになっていった。 そんななか、誠が絵画を売りに出すのが決まって土曜日の夜だったことから、世間はこの画家のことを土曜日を意味する『サバト』と呼ぶようになったのだった。
誠は図々しく音羽の目のまえを通ると(いつでも図々しいが)、閉められたままのカーテンをしゃっ、と開けた。
「外はいい天気ですよ。たまには外に出ませんか?」
いつもの音羽なら、ぜったいに断る誘いだ。
でも、開けられたカーテンから差しこんだ光が思いのほか綺麗で、音羽はめずらしく、誠を追い出すのをやめたのだった。
「……なに、この子」
マンションを出ると、見知らぬ男子高校生がマンションのまえに立っていた。
誠と同じ学校の制服を着ている。シナモンのような薄い色素の髪色に、感情の乏しそうな重めのまぶた。
「どうもはじめまして。真暗牧志(まくら・まきし)といいます」
「はあ……」
深々と頭を下げられて、音羽はとまどう。
「あんた、この性悪(しょうわる)の友達なの?」
「赤月くんって性悪なんですか」
まじめにそう返す牧志に、誠が苦笑しながら言う。
「山吹先生、彼に余計なことをふきこまないでください」
そんな誠のことは相手にせずに、音羽は空を見上げた。
空には、水面の波のようなうろこ雲。
木々の葉はすっかり紅葉していて、夏の暑さもやわらいでいる。
「……もう、秋になっていたのね」
そのとき、誠の携帯電話が鳴った。
一言二言のやりとりのあとに、誠は携帯電話の通話口を手で押さえて、小声で言った。
「ごめん、ちょっと長くなりそうだ。ふたりはそのあたりを散歩でもしていて」
「わかった」
牧志がうなずいて、歩き出す。
音羽は若干(じゃっかん)の気まずさを感じながらも、無言の牧志のあとに続いた。
散歩といっても、見慣れすぎた街中だ。
見慣れた道路、見慣れた街路樹、見慣れた店先のまえを、ふたりで黙々と歩いていく。
人の波も過ぎて、あたりがすこし静かになったころ、
「……サバトさん、なんですよね」
牧志がとつぜん、そう言った。音羽はちらりと牧志を横目で見た。
「……ほんとうに仲がいいのね」
あの誠がそこまで話すなんて、よほど信頼しているのだろう。
そもそも、誠の友だちに引き合わせられるということも、考えてみればはじめてのことかもしれない。
「赤月くんは、なにかとぼくを気にかけてくれます。……白河くんが、いなくなってから」
「……!」
音羽が足を止めて、牧志を見る。
牧志も立ち止まり、音羽に視線を返した。
「ぼく、白河くんと友だちだったんです。だから、サバトさんの話も聞いています」
牧志はぽつり、ぽつりとつぶやくように言った。
「実際に、サバトさんの絵を見たこともあります。……白河くんのお母さんの肖像画、すごかったです」
「あいつ……カオルは、なんか言ってた? ……あ、あたしのこと」
思わず、声がうわずってしまい、音羽はかっ、と顔が熱くなった。
……失言した。
これじゃあまるで、カオルのことを気にしているみたいだ。
牧志は表情を変えずに、静かに言った。
「……サバトの絵は光って見える、と言っていました」
音羽は動きを止めた。
しばらくだまって牧志を見つめたあと、やがて音羽は、ふっと息をもらした。
「……結局あいつには、あたしの絵しか見えていなかったのね」
牧志はじっと音羽を見つめながら、言った。
「……ぼくたち、白河くんに置いていかれちゃいましたね」
……音羽は、誠が自分と牧志を引き合わせたわけが、ようやくわかった気がした。
置いていかれても、引き止めることができない。追うことができない、うんざりするような弱さ。
彼と自分は、なるほどよく似ている、と音羽は思う。
牧志は、伏し目がちに言った。
「ひとりには、とうの昔に慣れたと思っていました。でも、……一度やさしさを知ってしまうと、ひとりはさびしいものですね」
たかだか高校生が、なにを言っているんだか。
音羽はおかしくなって、ふふ、と笑った。
「あんたみたいな若い子が、言うようなことじゃないわ。それにあたしは」
音羽は一歩、踏み出した。
そして、振り返らずに言った。
「さびしいほうが、性に合っている気がする」
秋が過ぎれば、冬が来る。
そうしていくつの季節が過ぎ去っていっても、きっとカオルはもどってはこないだろう。
音羽は牧志を振り返って言った。
「行くわ。あたし、カゴの外に出てみる。どこまで飛べるか、やってみるわ」
それから数週間後。
────音羽がすがたを消した。
あのマンションはもぬけの殻で、誠を含め、だれも音羽とは連絡がとれなくなったらしい、と牧志は誠から聞いた。
いま、牧志と誠がいるのは、学校の帰り道のファストフード店。
牧志の目のまえでは、誠がミルクセーキを飲んでいる。
ここ数ヶ月で、牧志もだんだんと誠について知ることが多くなった。
彼は意外と、ジャンクフードが好きだということ。
なかでも甘い食べ物に目がないということ。
妹には弱いところがあるということ。
……そして彼も、白河カオルの友だちだということ。
「赤月くんは、さびしくないの? 白河くんも、サバトさんもいなくなってしまって」
「ううん、ぜんぜん」
牧志の問いに、誠は即答した。
「ふたりにとっては、この世界は窮屈過ぎるんじゃあないかな、って思っていたしね。……それに僕には、真暗くんがいるじゃない」
とつぜん名前を呼ばれたので、牧志はとまどう。
「……え。ぼく?」
「うん。そのうち真暗くんのことを『牧志』って呼べるような仲になるのが、僕の当面の目標だよ」
「……べつに、呼んでかまわないけど……」
「じゃあ、つぎの目標は、牧志に『誠』って呼んでもらうことかな」
……なんだか自分の周りには、一筋縄ではいかない人たちが多すぎる、と牧志は思った。
でも。
牧志は小さく笑う。
「……それじゃあ、そのつぎの目標も決めなきゃね、『誠くん』」
……いつの日かの再会を待ちながら、のんびり過ごすのもわるくないのかもしれない。
それに案外、そう遠くはなかったりするかもしれないし。
サバトはきっと、いまもどこかで絵を描いているだろう、と牧志は思う。
……ぼくと同じように、空のまぶしさに目を細めたりして。
この空のしたのどこかにいるであろう、白河くんに想いを馳せたりしながら。
おわり
2019/06/26 擱筆