ご注意:この小説は『おやすみ、ノイズ』のネタバレ要素を多く含みます。
該当する小説を未読のかたには不親切な描写が多々ありますので、ご注意ください。
五月、まもなく梅雨の季節がやってくる頃。
ピアノ調律師の雀一崇(すずめ・いちたか)は、いささか緊張していた。
今日はピアノ講師、縫針琴子(ぬいばり・ことこ)の家のピアノの調律に呼ばれている日だ。
琴子は、一崇がピアノ調律師になりたての頃からの客のひとりで、もう十年近くの付き合いになろうとしている。
気心が知れた仲であり、琴子に対しては緊張をするようなことなどなにもない。
一崇が緊張しているのは、別の人物のせいだった。
その人物とは、琴子の娘……、小学六年生の『かなで』だ。
琴子は夫とすでに離婚しており、かなでとふたりで暮らしている。
父親のいない環境で育ったかなでの内心がどんなものなのか、あいにく一崇にはわからない。
しかし、彼女の無邪気であどけないふるまいに、近ごろ、どこか不透明さを感じるようになっていた。
単刀直入に言うと、……なんだかかなでに、嫌われているような気がする。
どこからそう感じるのかと言われれば、これといってはっきりとした根拠はない。
ただ、このところ急に、琴子からの調律の依頼が増えた。
一ヶ月に二回、調律に呼ばれることもある。それは一般的な家庭での調律回数に比べると、かなりの頻度だった。
一崇が呼ばれるのは、いずれもピアノに不具合が出るせいだ。
しかし不具合の原因はいつもささいなことで、ゼムクリップや、ちょっとしたゴミがピアノのなかに詰まってノイズを発していることがほとんどだった。
……一度や二度なら、まだわかる。しかし、その都度清掃しているのに、こうまで頻繁だとどうもおかしい。
琴子の態度から見て、琴子がわざわざ仕組んでいる、ということは考えづらい。
もしもそうだとしたら、相当な演技派だ。
ただ、ひとつだけ引っかかっていることがある。
それは一度、調律中に娘のかなでが居合わせたときのことだった。ただならぬ視線を感じた一崇は、ちらり、とかなでのことを盗み見た。
そのときのかなでの目を、一崇はどうしても忘れることができずにいた。
かなでは、……獲物がワナにかかることを心底楽しみにしているような目で、こちらを見つめていたからだ。
……もしもかなでが、自分に嫌がらせをするために、わざとゴミをこっそり入れていたら。
そんな考えが一崇の脳裏を一瞬よぎった。
(そこまで嫌われていたとしたら悲しすぎる……、僕の考えすぎだといいんだけれど)
ぐるぐると考えを巡らせながらも、一崇は約束の時間どおり、琴子の家の門をくぐった。
「雀さん、いつもごめんなさい。なんだかまた、ピアノの様子がおかしくて……」
家に迎え入れた琴子が、申しわけなさそうに頭を下げた。
肩の上で切りそろえられた髪に、黒のハイネックと、白のアンクルパンツ。そういえば琴子はいつも、この二色を身にまとっていることが多いな、と一崇は思う。
「いいですよお、またゴミが入ってしまったのかも。ちょっと掃除しながら状態を確認してみます」
「ありがとうございます。私は向こうの部屋にいますから、終わったら声をかけてくださいね」
「はーい」
そう返事をしたあと、一崇ははた、と動きを止めて、琴子にたずねた。
「……あっ、そういえば、……今日はかなでちゃんは?」
「まだ学校ですけれど、もうすぐ帰ってくると思いますよ」
「あ、あはは、……そうですよね!」
一崇はうんうん、とひとりでうなずくと、さっそくピアノに向かった。
琴子のピアノは、小さいけれどグランドピアノだ。
素直な音を響かせ調律もしやすい、しなやかな女性のようなピアノだった。
「よしっ、やるぞ!」
一崇は、軽く鍵盤を鳴らしてみた。……最初の打鍵から、たしかにきもちのわるい音だ。
カサ、と紙がこすれるような雑音がわずかに混じっている。
「……この感じだと、棚板部分にゴミが入っているな」
一崇はピアノの外装をはずして、オサに載ったままの鍵盤を引き出した。
すると鍵盤のした、ピアノの底の部分の棚板が見えた。
ピアノの内部は案外、埃(ほこり)がたまる。それに鍵盤の隙間からもゴミが入りこみ、この棚板の部分に落ちたりすることもある。 もちろん、これだけの頻度で清掃と確認をしているので、本来ならば、いまここにゴミが溜まっているはずはないのだが……
「……なんだ?」
一崇が異変に気がついたのはすぐだった。
棚板に、埃ではないゴミが落ちている。
それもひとつやふたつではない。
ノートの切れ端のような紙が、何枚も何枚も重なり合うように落ちていた。

一崇はあまりの光景に、しばらく動きを止めてしまった。
「……さすがにありえないよなあ、ここまでの量の紙は。鍵盤の隙間から故意に入れでもしないと……」
そうしてその切れ端の一枚を手にとってみて、
……一崇は今度こそ、息をのんで固まった。
調律を終えたあと、なんだか現実味のないまま、一崇は琴子とあいさつを交わした。
そしてふらふらと琴子の家のまえに止めていた自分の車のなかにもどると、運転席のシートに深く腰をかけた。
そのまま、しばらく放心する。
……琴子には、ほんとうのことを言えなかった。
だって、こんなこと、言えるわけがない。
一崇はおそるおそる、ポケットに突っこんでいた先ほどの紙の切れ端を取り出して、見つめた。
そこには鉛筆で、
『でていけ』
……とだけ書かれていた。
どの紙にも同じように、ただひたすら、
『でていけ』『でていけ』『でていけ』『でていけ』『でていけ』『でていけ』……
一崇は深いため息をついたあと、片手で両目を覆った。
……かなでのしわざだ。
そしていままでのノイズの原因も、やっぱりかなでが仕組んだことで……、今日も一崇が来ることを想定して、この紙をピアノのなかに忍ばせていたのだろう。
「あああ……、これはめちゃくちゃ落ちこむな……、きっつい……」
……今日はとつぜんのことでなにも言えなかったが、これからもこの行為がエスカレートしていくのならば、今度、琴子にそれとなく話をしたほうがいいのかもしれない。
そのとき、車の横をひとりの少女が横切った。
……琴子によく似た顔の、長い髪の少女。……『かなで』だった。
一崇があわてて目をそらすまえに、一崇とかなでの目が、たしかに一度、ばちりと合った。
……また、あの目だ。獲物を狙う、肉食動物のようなするどい目……。
ぎょっとして肩をすくめ、こわごわとかなでに視線をもどす一崇に向かって、
……かなでは天使のような微笑みで手を振ると、そのまま家のなかへと入っていってしまったのだった。
おわり
2019/06/12 擱筆