乗客たち(d)


深神はというと、ハルカが演奏を終えるまで、食事の手を止めていた。

「いま、ハルカがピアノを弾いたのか? ……」
「おや、深神先生はあの少年と知り合いなのか?」

深神のつぶやきに、それまで深神と話していた男、塩原優一が反応した。
塩原は『しろくま病院』の院長で、体格の横はばが人の二倍ほどあるような、大きな男だった。

「ええ……、彼は私の助手でして」

そう言うと、深神は塩原に対してにっこりと笑ってみせた。

深神はすっかり、まわりの乗客たちと打ち解けていた。
先ほどまで同じテーブルの前にいた誠は、赤月家のあいさつがあるといって、青空を連れて別の場所へと行ってしまった。

深神は塩原のとなりに立っていた女性にも、声をかけた。

「お酒は苦手ですか?」
「えっ……」

女性はびくりとからだをふるわせて、深神を見た。

彼女は塩原の妻、礼美だった。
チャイナ風のドレスを着ていて、桜子とはまた別のタイプの美人だったが、 最初に深神とあいさつを交わしたあと、まだ一言も発していなかった。

塩原は礼美に向かって、いらいらと声をあらげた。

「はい、だとかいいえ、だとかあるだろう、え? まったくおまえを見ていると、イライラしていかんな」

それを聞いて、礼美はますます小さくなっている。

「ま……まあまあ、塩原院長。女性はひかえめのほうがいいですよ」

そう塩原をたしなめたのは、シャムロック・パークの佐藤だった。
塩原はそんな佐藤のことを、ぎろりとにらんだ。

「このおれに意見する気か、 啓祐? おまえ、いつからそんなにえらくなったんだ?」
「い、いえっ、べつに、そんなつもりでは……」
「ふん、どうだか。だいたい、だれがおまえをシャムロック・パークの施設長にまで押し上げてやったと思っているんだ……」

そうぶつぶつと言いながら酒をあおる塩原。
礼美は、そっと深神に声をかける。

「……主人はお酒が入ると、手をつけられないんですの。私、村崎さんを呼んできますわ」

村崎とは、あの旅館『あやめ』の支配人のことだ。礼美はそっとテーブルを離れると、村崎を探しに行った。

「塩原院長と佐藤さんと村崎さんは、みなさんお知り合いなんですね」

深神が言うと、塩原はふん、と笑った。

「まあな。おれと村崎は、学生時代からの友人なんだ。啓祐は、面倒を見てやっている弟分のような存在かな」
「あはは、弟分ですか……」

佐藤はなんとも言えない表情で苦笑いをしている。
深神は手に持っていた皿を、テーブルの上に置いた。

「楽しいひとときをありがとうございました。私はそろそろ、助手を回収してきます。……それではみなさん、また」

深神は帽子を取って一礼をすると、彼らのもとから離れていった。
そして歩きながら、深神はぼそりとつぶやく。

「……ああ、ひさしぶりだな。なんと言ったかな、この感覚……」

そしてひとり、さわやかに笑う。

「そうだそうだ。『へどが出る』、か」