発足(a)


ご注意:この小説は『海はその謎解を望むのか?』、 および『月見坂学園憑き幽霊の省察』のネタバレ要素を多く含みます。
該当する小説を未読のかたには不親切な描写が多々ありますので、ご注意ください。


季節は初夏。

さすがにセミの鳴き声はまだ聞こえないものの、 そとに出てすこしでもからだを動かせば、すぐに汗ばむような生暖かい気候だった。

しかし、六路木玲花(ろくろぎ・れいか)のいる雑誌出版社のオフィス内は冷えきっていた。
それはけっして比喩ではなく、エアコンの設定温度が異常に低く設定されているからだった。

冷房の風はちょうど編集長の机のまえ……、つまり玲花がいま立っているこの場所に、直(じか)に当たる。
玲花はその不快な冷気に顔をしかめながら、編集長の朝本に食い下がっていた。

「なぜ、これ以上の取材を続けてはいけないんですか? まだ事件が起きて間(ま)もないし、その事件現場が豪華客船ともなれば、読者だって食いつくはずです。 それなのに、どのマスメディアもここまでしずかなんて、あきらかにおかしいです……!」

言いながら、玲花は胸のまえで書類の束をぐっとにぎりしめた。
この束は朝本にろくに目も通されず、机の上に放り投げられた玲花の原稿案だった。

「あのな、六路木君」

朝本はため息をつきながら、机の上に両ひじをついた。

朝本はくせの強い髪をうしろに流して、あごにひげを生やした男だ。
それは別におしゃれでそうしているわけではなく、忙しさのあまりに手入れがいき届いていないだけだった。

「……きみの書いた前回の記事が大ゴケしたのは覚えているだろう?  殺人事件ならともかく、きみが取り扱ったのは、ごくありふれた、ただの傷害事件だった」
「いいえ、あれは『過失』傷害事件です」
「とにかく」

朝本は咳ばらいをした。

「これはビジネスなんだ。正義感だけでは金にはならん。 私の方針に従えないのなら自分で会社を立ち上げて、そこでやれ」

たしかに朝本の言うことは正しい。
しかし、玲花にはどうしても納得がいかなかった。

「編集長まで、……どうしてあの豪華客船の事件をさけるんですか?」

朝本はその質問に顔を上げることもなく、 ほかの記者が書いた別の原稿に視線を落としながら言った。

「今日は家に帰れ。考えが変わらないようなら、明日からもずっと家にいていい」

それはつまり、クビだということだ。
それ以上なにも言うことができない玲花は、だまってくちびるをかんだ。