音楽室の幽霊(a)


ご注意:この小説は『夕陽色に染まる謎刻』のネタバレ要素を多く含みます。
該当する小説を未読のかたには不親切な描写が多々ありますので、ご注意ください。


まだ空気が透明な、冬の月曜日の、朝早く。
僕、葵和也(あおい・かずや)は今日も、海の見える高台へと足を運ぶ。

そこには見慣れた……プラチナブロンドの髪の少女と、同じ色の髪を持つ少年が、こちらに背を向けて立っていた。

鬼無里翠が橋から飛び降りてから、二年の月日が経っていた。
翠は橋から飛び降りた後、重度の昏睡状態、……いわゆる『植物状態』に陥った。

周囲は口を揃えて、彼女が自殺を試みた、と語った。
無理もない。状況から考えれば、誰しもがそう思っただろう。
僕だって、彼女でなかったらそう思ったはずだ。……そう、それが『鬼無里翠』でさえなければ。

彼女はそれから一年後、奇跡的に回復し、再び目を覚ました。

植物状態に陥るまえと変わらない健康体にもどった彼女は、一年分の空白期間により、留年することに決まった。

そして僕より一歳年上だった彼女は、古山(ふるやま)高等学校の二年生となった。
……それは僕が、『古山高等学校の二年』にあがる、春の出来事だった。

「……和也お兄ちゃん?」

翠よりも先に、彼女の弟……鬼無里紺(きなさと・こん)が、僕の存在に気がついた。

「当たり。……おはよう、紺、翠」

僕がそう言うと、紺はうれしそうに笑って、僕のところに駆け寄ってきた。

「おはよう、和也お兄ちゃん!  あのね、ぼく、きのうの夕方に翠お姉ちゃんと、海で貝がらをたくさん拾ったの。和也お兄ちゃんにもあげる!」

そう言って紺は、ハンカチでくるんだ貝がらをポケットから取り出すと、僕に差し出してきた。

紺は、古山小学校指定のセーラー服を着ている。
一見、女の子のような顔立ちをしていて、実際に性別を間違われることも多い。
からだつきも同じ年頃の子たちと比べると、ずいぶんと小柄だ。

紺は、相貌失認(そうぼうしつにん)という脳の障害をもっていて、家族以外の顔を認識できない。
なので毎日、僕は彼に名前を問われては、答える必要があった。

彼に識別してもらうためには、目印を用意しなくてはいけない。
そんなわけで冬の僕の目印は、鳶(とび)色のマフラーを着用することだった。

紺とは対照的に、翠がゆっくりとした動作で近づいてきた。

「おはよう、和也」
「翠、毎朝海を眺めていて、飽きない?」
「いいえ、まったく」

翠は即答した。
黒色のセーラー服が、海風を受けてはたはたとひら動いている。

「海を見ていると落ち着くの。……和也は、海水の水粒子が楕円軌道を描いて運動しているのは知っている?」
「また難しいことを言って」

僕は苦笑した。

「僕に分かることなんて、翠の爪の先ほどもないんだ。そんなにいじめないでくれよ」
「いじめているつもりなんてないわ。……ただ、楕円軌道だなんて」

そのとき、紺がいつものように、僕と翠の真ん中で、ふたりの手をつないだ。
つながれた手を見ながら、翠は目を細めた。

「……手をつないだときの、私たちのようだと思ったから」