ピアノレッスン(a)


縫針先生こと、縫針琴子(ことこ)とは、ピアノ講師の女性だ。
この縫針先生こそがまさに、僕が今日、ピアノのレッスンでお世話になろうとしている先生だった。

縫針先生は、旦那さんとはすでに離婚をしている。
いまは小学六年生の娘、『かなで』ちゃんとふたり暮らしだ。

彼女は自宅でのピアノのレッスンのほか、月見坂学園の音楽の非常勤講師としても、たびたび働いていた。

「実は僕たちも、これから縫針先生のところに行くつもりだったんだ。……日高さんも、縫針先生からピアノを習っていたの?」
「ううん、そうじゃなくて……、縫針先生のところって、大きな黒いワンちゃんを飼ってるでしょ?」
「ああ、たしか犬の名前は……、チャコだったかな」
「そう、そのチャコ!」

日高さんはぱん、と両の手のひらを合わせた。

「私の家は、動物病院をしているんだ。最近、チャコの具合がわるいらしくて、よくうちに来るから……、すこしようすを見たいと思って」
「そうだったのか。……日高、運がいいな」

ミカミがそう言って、ニヤリと笑った。

「今日は彩人のピアノをぞんぶんに聞くことができるぞ」



「あら、結子ちゃんもいらっしゃい! 今日はにぎやかでいいわね」

肩の上で切りそろえられた髪に、黒のハイネックノースリーブと、白のアンクルパンツ。
縫針先生は、玄関先でにこにこと僕たち三人を出迎えてくれた。

縫針先生の家は、ログハウス風の小洒落(こじゃれ)た外観の建物だった。
家の裏手には雑木林が広がっていて、その林の波に家が飲みこまれているようにも見える。

しかし、雑木林とは言っても、昼間に見るかぎりでは明るい雰囲気だ。
見通しもそこまでわるくもなく、すこし入ったところには小さな納屋が見えた。
縫針先生の話では、その雑木林もふくめて、縫針先生の家の敷地らしかった。

「……あれ、ピアノの音がする。かなでちゃんですか?」

日高さんが家のなかをのぞきこみながら、たずねた。
すると、縫針先生が笑って言った。

「かなではまだ、帰ってきていないわ。あの音はね、調律師の雀(すずめ)さんが来ているのよ」
「雀さんが……ですか?」

僕は首をひねる。

雀さん……雀一崇(いちたか)のこと自体は、僕もよく知っている。
二十代後半のまだ若い調律師の男性だけれど、腕はたしかだ。

調律師の学校を出たあと、すぐに担当したのが僕の家のピアノだったと言っていたっけ。
ざんねんながら、その調律のあと数年で、僕はピアノを手放すことになってはしまったけれど。

しかし、そのあともいろいろと縁があって、いまでは雀さんとは気ごころの知れた間柄(あいだがら)だった。

「でも、雀さんは、ついこのあいだもここに来ていましたよね?」

ピアノの調律は、だいたい年に一、二回ほどがふつうだ。
そして、縫針先生の家のピアノは、まだ前回の調律からそんなに時間が経っていないはずだった。

「うん、そうなんだけれどね。 きのうからピアノの高音に、またノイズが入るようになっちゃって。いま、原因を見てもらっているのよ」

そのとき、それまで鳴っていたピアノの音が、ぴたりと止まった。
ほどなくして、雀さんの声が家の奥から聞こえてきた。

「縫針先生! ノイズの原因、わかりましたよお。あと、軽く調律もしておきました!」

そう言いながら縫針先生のところへやってきた雀さんは、僕の顔を見ると笑顔を深めた。

「あっ、彩人くん! それに、学校のおともだちかな?」

雀さんはぱりっとしたスーツを着ていて、ネクタイもきちんとしめている。
それなのに、どこかなごやかな印象を与えるのは、ひとえに雀さんの持っている人柄のせいだろう。

「やったー、今日は彩人くんのピアノも聞いて行っちゃおっと。縫針先生、かまいませんか?」
「ええ、いいですよ。たくさん人がいるほうが、彩人くんにとっても勉強になるでしょうし。 あ、それで……、ノイズの原因はなんでした?」

縫針先生が雀さんにたずねると、雀さんはすっ、と自分の右手を顔の横へと持ってきた。
その指先では、なにか小さなものをつまんでいる。

「これです、これ。……クリップですよ」

それは針金を長円形にまるめた、銀色のゼムクリップだった。

「これがピアノのなかに入ってしまって、共鳴していたんです。これを除いたら、もうノイズは鳴らなくなりましたよ」
「あら、またクリップ?」

縫針先生がおどろいた声をあげた。

「なんだかごめんなさいね。このあいだお呼びしたときも、原因はクリップだったわよね……、 たぶん、生徒のだれかが楽譜のページをはさんでいるものが、落ちちゃうんだわ」

それから縫針先生は肩を落とした。

「こういうこともあるから、クリップはなるべく使わないようにって、生徒たちには言ってあったんだけれど……」
「しかたないですよ、クリップは手軽で便利ですし。 楽譜に折り目をつけることに抵抗があって、ついクリップを使ってしまうきもち、僕もわかりますもん。 安心してください、またなにかあったら、遠慮なく呼んでくださればいいですから!」

雀さんはほがらかに笑うと、僕のほうを見た。

「さってと、これで僕の仕事は終わり! それじゃあひさしぶりに、彩人くんのピアノを聞かせてもらおうかな!」