みずきはそのまま、緋色に向かって突進していった。
そして緋色の脳天めがけて、ゴルフクラブを勢いよくふり下ろした。
緋色は身をひるがえしてそれを避けたものの、みずきは一度ふり下ろしたゴルフクラブを、今度はそのままななめ上へふり上げた。
その攻撃をよけることができなかった緋色の腹に、クラブヘッドがめりこむ。
「かはっ……」
腹をおさえて、緋色がその場にうずくまる。
すかさずその緋色に向かってゴルフクラブをふり下ろそうとするみずきに、
「みずき! やめろ!」
僕が制止の声をあげると、みずきはぴたり、とゴルフクラブをふり上げたまま動きを止めた。
そしてそのあと、ゴルフクラブをゆっくりと横におろした。
……かと思うと、とつぜんぐるり、とみずきが首を回して、こちらを見た。
「どうしてですか? どうして止めるんですか?」
「どうしてって……! 緋色が死んでしまうだろ!?」
みずきはそれを聞いて、もう一度、ゴルフクラブで緋色の背中をなぐった。
僕はあわててみずきに駆けより、ゴルフクラブをみずきの手から引きはがした。
みずきはそれまで鬱屈(うっくつ)とした表情で緋色のことを見下ろしていたが、僕の顔を見ると、ふしぎそうに首をかしげた。
「この人、蒼太さんを殺そうとしたんですよ? これでこの人のことを殺したとしても、正当防衛です」
もっとも、この世界に法律が適用されるとも思いませんけれど、とみずきはおかしそうに笑った。
僕はみずきになにも言わず、彼女を横におしのけて、緋色のもとへ向かった。
倒れたまま動かない緋色を、そっと抱き起こす。
口からは血が伝っているが、息はまだあった。
「緋色……、だいじょうぶか?」
声をかけるが、反応はない。
この世界には医者だっていないだろう。
でも僕には、応急処置の仕方さえわからない。
「くそっ……、どうすれば……」
「ねえねえ、蒼太さん」
みずきが僕にすりよってきて、うでをからめてくる。
「悲しいですけれど、やっぱりこの人には死んでもらいましょう? ずっと痛いのが続いているなんて、かわいそうです」
ぞっとした。
この少女は何者なんだ?
そんな疑問が、ここに来てまた息をふき返す。
しかし彼女が何者であれ、彼女のなにかがここにきて、急に変わったわけじゃあない。
……彼女の狂気に、いままで僕が、気づかなかっただけなのだろう。
ぐいぐいと強い力で腕を引っ張ってくるみずきを、
「もうやめてくれ……っ」
とっさに払いのけた。
「蒼太さん…? 私、いま、蒼太さんに拒絶された……?」
みずきはよろよろとあとずさって、床の上にへたりこんだ。
「どうしよう……、私きらわれちゃったの? 蒼太さんにきらわれちゃった? やっぱりその女のせいなのかな? その女が出てこなければ、私たちずっとこの世界でふたりきりだったのに、ようやく蒼太さんとふたりきりになれたのに、神さまがふたりきりにしてくれたのに、くれたのに……っ!」
世界が狂っているのだろうか。
人が狂っているのだろうか。
それとも僕が狂っている?
それでもいいだろう。
みんなみんな、狂ってる。
みんなが世界に、ひとりきり。
それに気づいた瞬間に、街から人はすがたを消す。
……世界は砂で作った城のように、崩壊していく。
そのとき、僕のうでのなかで緋色がわずかに身じろぎをした。
僕は緋色の肩を抱いていた手に、力をこめる。
「緋色……っ!?」
「あおちゃん……」
緋色が苦しげに息をつき、うすく開いた目が僕をとらえた。
「あおちゃんはね……、七月六日、村崎みずきに殺されたの」
緋色は言った。
殺された。
僕のなかで、誰かがその言葉を反芻(はんすう)した。
肩で呼吸をしながら、緋色は続けた。
「村崎みずきは、あおちゃんを自分だけのものにするために、あおちゃんを殺したの。
七月六日の夜……、あおちゃんとハルカ君がコンサートに行った日。私たちとあおちゃんが、別れたあとに」
あのコンサートの帰り道。僕が……殺された。
僕はもう、死んでいるのか?
「そうですよ、ようやく夢が叶ったんですよぉ!」
うしろで、みずきが叫んだ。
「ここは『西森先輩』とふたりきりの、夢のような世界だった……! ……それなのにこの女、世界を巻きもどしてまで、私のじゃまをする……っ!」
みずきはぎり、と歯ぎしりをした。
怒り狂っているその顔は、泣いているようにも見えた。
「だから先輩を向こうの世界で『もう一度』殺そうと思っていたのに……、あんたが余計なことをするから、こんなことに……っ!」
ゆっくりとふり返った僕に、みずきは叫ぶ。
「先輩! ゴルフクラブを返してくださいよう! 私がその女を殺してあげますから! ねえ、蒼太さん……っ」
みずきは涙をぽたり、とこぼした。
「また楽しく暮らしましょう? ふたりでいっしょに、新婚さんみたいに! ねえ……っ?」
「ごめん、みずき。僕にはできない。……もう終わりだ」
僕がそう言っても、みずきはもう、ひるまなかった。
「あははははははははっ! 終わりになんかさせませんよう! その女を殺してやる、殺してこの世界を、永遠に続けるんだッ!!」
そうしてわめき散らしていたみずきの両目が、次の瞬間、大きく見開かれた。
「あっ……、ああぁ……!?」
胸元に、トン、という衝撃。
なんだろうと見てみると、僕の胸には包丁が刺さっていた。
それからじわじわと胸元が冷たくなって、そのあと、とても熱くなった。
白かったシャツに赤が広がっていく。
僕の胸に刺さっている包丁を、右手につかんだままの緋色は、いつものような笑顔で笑った。
「あおちゃん。向こうの世界でも、元気でね」
僕の頭から、どんどん血の気が引いていくのがわかった。
「がッ……、は……」
呼吸がうまくできず、せきをすると同時に、口から血液交じりの唾液がこぼれる。
くるしい。くるしいけれど。
最後の最後に、緋色の笑顔を見ることができた、……それだけで。
僕は包丁をつかむ彼女の右手に、自分の手をそえた。
ありがとう。
……僕はちゃんと、そう緋色に言えたのだろうか。
彼女のくちびるに触れたかった。
でも、もう目がかすんできて、彼女の顔が見えない。
ここで、終わりか。
ああ、そういえば、
緋色にきちんと告白、
……できなかったなあ。