深神探偵事務所のビルのまえについた僕は、頬がぬれていないかどうか、もう一度確認をした。
「……だいじょうぶ」
涙は、もうすっかり乾いている。
大声で歌って大声で泣いたおかげで、僕の心はだいぶ晴れやかになっていた。
僕は臆することなく、事務所の扉を開けた。
事務所のカギは、開いていた。
僕は事務所に踏み入り、声をかける。
「……緋色?」
しばらく入り口で待ってみたけれど、緋色が出てくる気配はない。
事務所に来るまえに連絡をとっておけばよかったかな。
僕は改めて緋色に電話をかけようと思ったところで、いつもの事務所にはないものを見つけた。
それは、テーブルに置かれたお菓子のカゴのとなりにあった。
細くて小さな笹が入った、ひとつの花びん。
よく見てみると笹の葉には、これまた小さな短冊がいくつかぶら下がっていた。
「そうか……、七月七日は、七夕だったっけ」
七月七日、短冊に願いごとを書いて笹につるすと、その願いが叶うという。
この異様な世界のなかでは、その存在をすっかり忘れていた。
僕はすこしだけ頬の力をゆるめ、短冊をひとつずつ手に取りながら、それを読んだ。
『依頼が増えますように 宝くじが当たりますように 深神』
深神さんの願い事の書かれた紙だった。
……なんて切実な願いなんだ。まあ、彼らしくはあるけれど。
僕は次の短冊を手に取った。
『深神さんに彼女ができますように 白河ハルカ』
今度はハルカだ。
深神さんのために願うなんて、あいかわらずのお人よしだった。
……そして次の短冊を手に取った瞬間、僕は息をのんだ。
『みんながしあわせに過ごせますように 西森蒼太』
書いた覚えのない、僕の願い。
しかしそこに書かれている文字は、たしかに僕のものだ。
それもよく見ると、なぜか僕のものだけ短冊ではなく、メモ帳の切れはしに書かれている。
ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
……短冊は、あともう一枚、吊るされている。
おそるおそる手をのばすと、その短冊にはどこかよわよわしく、頼りない小さな文字で願いが書かれていた。
『三日まえからやり直せますように 宮下緋色』
みしり、とうしろで床が鳴り、僕はふり返った。
そこには宮下緋色が立っていた。
僕と目が合った緋色は、
「ああ、気づかれちゃった……」
と、疲れたような笑みを浮かべた。
彼女はエプロンなどしていなかったし、第一彼女の立っているその場所はキッチンではなかったのに、
……手には包丁を持っていた。